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第82話 太陽と届かない思い

 夜の母校は、驚くほど静かだった。


 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った中学校の校門をくぐり、俺は三年ぶりにこの場所を訪れた。


 松岡先生の連絡先なんて知らない。


 高校で再会したときも、まともに言葉を交わすのが精一杯で、繋がれるものなんて何も貰えなかった。


 だから、先生がまだここにいる確証なんてどこにもない。


 それでも、職員室の窓に明かりがついているのを見つけた瞬間、俺の足は勝手に動いていた。


 大きく息を吸い込んでから、俺は夜間通用口の重い扉を押し開けた。


 静まり返った廊下を歩き、かつて通い詰めたプールサイドへと続く渡り廊下で、俺はその人を待った。


 通りがかった先生に「松岡先生を呼んでほしい」と頼んだものの、断られるかもしれない、もう帰っているかもしれないと、心臓がうるさいほど鐘を鳴らしている。


 冷たい夜気が、さっきまで着ていた高校の制服を通り抜けて肌を刺す。


 胸のボタンはすべて残ったままだ。


 同級生たちが第二ボタンを誰に渡しただの、そんな浮ついた喧騒は、今の俺には全く関係のない遠い世界の出来事だった。


「――高橋くん?」


 暗がりの向こうから、懐かしい、少しのんびりとした声が響いた。


 振り返ると、そこにはあの頃と変わらない、少し抜けた、だけど俺の「太陽」そのものである松岡先生が立っていた。

 

 息を弾ませ、不思議そうにこちらを見つめている。


「……先生。今日、無事に高校を卒業しました。それで、どうしても直接伝えたくて」


 俺は何もなくなった自分の手をじっと見つめた。


 中学時代、修学旅行のお土産で買った金魚の栞。


 あの人は今も、それを使ってくれているだろうか。


「俺、国立の教育大、合格しました。春から、先生と同じ道を歩きます」


 一瞬の沈黙の後、先生は「あっ……」と小さく息を呑んだ。


 それから、まるで自分のことのように嬉しそうな、弾んだ笑顔を見せる。


「本当!? すごいよ高橋くん! 一般受験、本当に大変だったでしょう。よく頑張ったね……! わざわざ報告に来てくれたの?」


「先生に追いつきたかったからです。……でも、俺が頑張ったのは、それだけじゃないです」


 先生の歓声に被せるように、俺は一歩も引かずに言葉を続けた。


 一歩、先生の方へと足を踏み出す。


 今夜を逃したら、もう二度と言えない。


 高校生という「生徒」の肩書きが消えた、今この瞬間だからこそ。


「俺、先生を追いかけたくて、水泳の推薦も断って、全部捨てて勉強したんです。もう俺は、先生の生徒じゃありません。……一人の男として、松岡先生がずっと好きでした。付き合ってください」


 夜の校舎に、俺の真っ直ぐな言葉が静かに響き渡る。


 松岡先生は、何も言わなかった。ただ、それまでの柔らかな笑みを消し、すっと姿勢を正した。


 やがて、先生の口から返ってきたのは、歓喜のトーンとは一変した、ひどく静かで、大人の、優しすぎる教師の声だった。


「……合格、本当におめでとう。必死に頑張ってくれたこと、本当に嬉しい。でもね、高橋くん」


 先生は、一度言葉を区切って、俺の目を真っ直ぐに見つめた。


「それはできないよ。ごめんね」


 一分の隙もない、綺麗すぎる拒絶だった。


 俺はその言葉だけで、それが「教え子」という決して越えられない絶対的な壁であり、完璧な拒絶なのだと分かってしまった。


「私にとって高橋くんは、教師になって最初に出会った、一生忘れられない、大切な『最初の教え子』なの。……春からの大学生活、きっとたくさんの素敵な出会いがあるよ。高橋くんの未来を、私、ずっと応援してるから」


 あたたかい、だけど残酷に突き放すような決別を告げて背を向けようとする先生を、俺の声が引き留めた。


 このまま、ただの可愛い教え子として綺麗に終わらせてたまるか。


「……先生」


 拳を強く握り締め、溢れそうになる涙を喉の奥で無理やり飲み込む。


 そして、精一杯の強がりと、これからの人生のすべてを懸けた執念を、目の前の太陽にぶつけた。


「俺をフったこと、絶対後悔させてあげますから。……そしたら、また言わせてください」


 一瞬、暗がりの中で先生が息を呑むのが見えた。


 それを見届けると同時に、俺は「ありがとうございました!」と頭を下げ、自ら背を向けて走り出した。


 夜の校舎を飛び出し、誰もいない夜道を一人で歩きながら、俺は両手で顔を覆った。


 完敗だった。


 だけど、胸の奥から湧き上がってきたのは、消えそうにない熱い思いだった。


(絶対に追いついてやる。……いつか、あなたの隣で、同じ教壇に立って見せる)


 夜空を仰ぐと、そこには佐伯先輩のような冷たい月となぎさのような星が、皮肉なほど綺麗に輝いていた。


「生徒と先生じゃ、いつまで経っても追いつけないから。……俺、二人の想いを断ってでも、あなたと同じ教壇に立つ男になります」

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