第81話 太陽と届かない水面
オレンジ色の西日が机の端を掠め、俺の前には一枚のプリントが置かれている。
「進路希望調査票」
これまで何度も目にしてきたはずのその紙が、今はインターハイのスタート台よりも重く、鋭く俺を試しているように見えた。
俺はペンを握ったまま、耳の奥で響く三つの「声」を思い出していた。
「……どうかな、大学でもまた、私と一緒に泳がない?」
佐伯先輩の、凛とした声。
競泳の世界でさらなる高みを目指し続ける彼女と同じ大学へ行き、またあの眩しい隣で泳ぐ未来。
「勝手に遠くに行かないでください……!」
なぎさの、震える声。
引退した俺のために不器用にケーキを焼き、真っ直ぐに「好き」をぶつけてくれた後輩。
「高橋くんらしく頑張ってね」
そして、中学の卒業式で松岡先生がくれた、温かな声。
再会した彼女の背中を追って教育大学へ進み、誰かの原点になれるような自分を目指す生き方。
未来(月)か、今(星)か、それとも原点(太陽)か。
窓の外からは、まだ現役で練習を続ける水泳部の、かすかなホイッスルの音が聞こえてくる。
俺は深く、深く息を吐き出すと、ようやくペン先に力を込めた。
カリッ、と。
進路希望調査の真っ白な紙に、俺は迷いなく『国立○○教育大学』と書き込んだ。
未来を共に泳ごうと言ってくれた佐伯先輩の「月」のような輝き。
地元の街で一緒にいようと泣いてくれたなぎさの「星」のような温もり。
そのどちらでもない、俺のすべての原点となった「太陽」の背中を、俺は選んだ。
この机に座る直前までの、二人の顔が脳裏をよぎる。
『……ごめんなさい、先輩。俺、先輩と同じ大学には行けません。隣で泳ぐ未来は、本当に眩しかった。でも……俺には、水泳推薦を蹴ってでも、一般受験でどうしても追いかけたい人がいるんです』
きっぱりと告げた俺の前で、佐伯先輩は一瞬だけ傷ついたように目を見開いた。
――俺が先輩の気持ちを断るのは、これで二度目だった。
先輩は自嘲気味に、どこか寂しそうに微笑む。
「……やっぱり、その人には勝てなかったかぁ。高橋くんらしいわね」
そう言って、最後まで手強い先輩らしく凛とした強さを崩さないまま、背中を向けた。
『なぎさ。お前の気持ち、本当に嬉しかった。でも、俺はお前の「今」に甘えるわけにはいかないんだ。地元の大学に残って、ただ優しい日々に逃げることはできない。ごめん』
放課後の夕暮れ、真っ赤な顔で泣きじゃくりながら「勝手に遠くに行かないでください!」と叫んだなぎさの震える声が、まだ耳の奥に痛いほど残っている。
二人を傷つけた。
真っ直ぐな好意を、俺の我が儘で踏みにじったんだ。
もう、後戻りはできない。
確実だった水泳の推薦枠もすべて捨てた。
今の俺の内申点や模試の判定では、この一般受験は死に物狂いで勉強しなければ絶対に届かない、無謀とも言える挑戦だ。
もし落ちたら、俺にはもう何も残らない。
一人になった放課後の教室で、俺はカバンからボロボロになった参考書を取り出す。
そのページには、中学の卒業式の日に松岡先生と一緒に撮った写真が挟まれていた。
高校に入ってから、何度も挫けそうになるたびに、俺はあの人の温かな声を思い出していた。
プールサイドのベンチでうとうととしていた、ちょっと抜けた顧問の先生。
水泳のことは何も知らないくせに、ガチガチになっていた俺の心を、ただの食べ物の話で一瞬で温めてくれた、太陽のようなあの笑顔。
「待っててください、先生」
俺は写真の中で笑うあの人を眩しそうに見つめ、自分に言い聞かせるように呟いた。




