第76話 星と宣戦布告
「……ちゃんと、答えてください」
なぎさの指先が、俺のシャツの袖をさらに強く絞り上げる。
キッチンの向こう側では、松岡先生がお茶を淹れる準備をしている音がかすかに聞こえる。
その音が、このリビングの静寂をより鋭いものに変えていた。
「……ああ、栞を贈ったのは本当だ」
俺は逃げずに、なぎさの瞳を真っ直ぐに見つめて答えた。
「あの時の俺にとって、松岡先生は……水泳を続ける理由のすべてだった。あの栞には、当時の俺の精一杯の気持ちがこもっていたと思う」
なぎさの表情が、一瞬だけ痛みをこらえたように歪む。
だが、俺は言葉を止めなかった。
「でも、それはもう過去の話なんだ。……今の俺が一緒にいたいのは、なぎさだよ」
なぎさは大きく目を見開いた。
掴んでいた手の力がふっと抜け、彼女は力なく椅子に座り直す。
「……ズルいです、先輩。そんなにはっきり言われたら、怒ることもできないじゃないですか」
なぎさは唇を噛み締め、膝の上に置いた自分の手をじっと見つめた。
「悔しいなぁ……。私がもっと早く生まれていれば。先輩が誰かに憧れる前に、私が隣にいられたら、その栞をもらえたのは私だったかもしれないのに」
ポツリと漏らしたその言葉には、どうしようもない年齢の壁に対する、少女の切実な祈りが混じっていた。
だが、なぎさはいつまでも俯いているような女の子ではなかった。
彼女は深く、深く呼吸を整えると、勢いよく顔を上げた。
そこには、いつものひまわりのような、けれど以前よりもずっと意志の強い笑顔が咲いていた。
「でも、決めました! 過去の思い出なんて、全部私が笑い飛ばして上書きしてあげます!」
なぎさは身を乗り出し、俺の顔のすぐ近くで人差し指を立てた。
「栞はあげちゃったかもしれないですけど、私には先輩と二人だけの『パフェの秘密』がありますもんね。これからは叔母さんよりも、世界の誰よりも、私が先輩を幸せにしてみせますから! 覚悟しておいてくださいね?」
「……なぎさ」
「返事は『はい』ですよ! ほら、叔母さんが戻ってきちゃう前に!」
なぎさは悪戯っぽく笑い、俺の動揺を茶化すように鼻先を近づけてきた。
その時、パタパタとスリッパの音が近づいてくる。
「お待たせ。二人とも、お茶が入ったわよ」
松岡先生がお盆を持ってリビングに戻ってきた。
「あら、なんだか二人とも、さっきより仲が良くなったみたいね?」
「はい! 先輩と、これからもっともーっと仲良くなる約束をしてたんです、叔母さん!」
なぎさは先生に聞こえるような明るい声で宣言し、俺の腕に自分の細い腕をしっかりと絡ませた。
先生のすべてを包み込むような包容力を前にしても、今のなぎさの笑顔には一点の曇りもなかった。
俺は、なぎさの腕の温もりを感じながら、自分の中にあった「過去」が、新しい「今」の色で鮮やかに塗り替えられていくのを感じていた。




