第75話 星と過去の残像
期末テストを控えた十一月の午後。
俺はなぎさに頼み込まれ、彼女の自宅のリビングで勉強を教えていた。
なぎさの両親は共働きで不在、家の中には二人きりだ。
「先輩、ここ……どうしても解き方が分からなくて」
なぎさが教科書を指差しながら、ぐいっと身を寄せてくる。
ふわりと、彼女の髪から甘いシャンプーの匂いが漂った。
女子高生らしい、瑞々しくて柔らかな香り。
二人の距離は、お互いの体温が伝わってくるほどに近い。
「……ここは、公式をそのまま当てはめればいいんだよ」
俺は動揺を隠すように、淡々と説明を続ける。
だが、ノートを覗き込む彼女のうなじや、真面目な横顔が視界に入るたび、ペンを持つ指先に余計な力が入ってしまう。
そんな密やかな時間は、玄関が開く音と共に破られた。
「なぎさー、ちょっとお菓子作りすぎちゃって、届けに来たよ。……あ、高橋くんもいたのね。二人で勉強してるの?」
リビングに入ってきたのは、仕事帰りのスーツ姿で紙袋を抱えた松岡先生だった。
「……っ、松岡、先生」
中学時代の記憶が、一気に脳裏をよぎって心臓が跳ねた。
先生は少し乱れた後れ毛を耳にかけ、ふっと息を吐き出す。
その飾らない姿さえも、周囲をほっとさせるような温かい空気を纏っていた。
「熱心ね。せっかくだから、今食べる? 淹れたてのお茶と一緒に、ちょっと休憩したら?」
先生が優しく微笑む。
なぎさの明るい可愛さとは違う、静かで、すべてを包み込むような圧倒的な包容力。
俺は反射的に立ち上がり、背筋を伸ばした。
自分でも情けないくらい声が上ずり、視線が吸い寄せられるように先生を追ってしまう。
かつての憧れ、俺が水泳に全てを捧げる理由だった人。
先生が「お茶、淹れてくるわね」とキッチンへ向かう。
その後ろ姿を見送る俺の心は、自分でも制御できないほどに波立っていた。
「……先輩」
不意に、隣に座るなぎさの気配から温度が消えた。
見ると、彼女はペンを置いたまま、じっと俺を見つめていた。
その瞳には、今にもこぼれ落ちそうな感情を必死にこらえるような、静かで、どこか悲痛な光が宿っている。
「先輩。今の顔、すっごく分かりやすかったですよ。……叔母さんのこと、好きなんですか?」
なぎさの言葉に、心臓が跳ねた。
叔母さん――松岡先生。
「先輩って……叔母さんに『栞』をプレゼントしましたよね? 私、知ってるんです」
なぎさは俺のシャツの袖をぎゅっと小さく掴むと、これ以上遠くへ行かないでと言わんばかりに、すがるような目で俺を見つめてきた。
「先輩の性格からすると、好きでもない人にそんな心のこもったもの贈りませんよね? ……図星ですか?」
図星だった。
かつて修学旅行先で、誰にも知られないようにと祈りながら選んだあの栞。
なぎさのあまりにも正確な指摘に、俺は言葉を失い、ただただ激しく動揺するしかなかった。




