↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
71/100

第71話 星といつもの水面

 オレンジ色の西日が机の端を掠め、俺の前には一枚のプリントが置かれている。


「進路希望調査票」


 これまで何度も目にしてきたはずのその紙が、今はインターハイのスタート台よりも重く、鋭く俺を試しているように見えた。


 俺はペンを握ったまま、耳の奥で響く三つの「声」を思い出していた。


「……どうかな、大学でもまた、私と一緒に泳がない?」


 佐伯先輩の、凛とした声。競泳の世界でさらなる高みを目指し続ける彼女と同じ大学へ行き、またあの眩しい隣で泳ぐ未来。


「勝手に遠くに行かないでください……!」


 なぎさの、震える声。引退した俺のために不器用にケーキを焼き、真っ直ぐに「好き」をぶつけてくれた後輩。


「高橋くんらしく頑張ってね」


 そして、中学の卒業式で松岡先生がくれた、温かな声。再会した彼女の背中を追って教育大学へ進み、誰かの原点になれるような自分を目指す生き方。


 未来(月)か、今(星)か、それとも原点(太陽)か。


 窓の外からは、まだ現役で練習を続ける水泳部の、かすかなホイッスルの音が聞こえてくる。


 俺は深く、深く息を吐き出すと、ようやくペン先に力を込めた。


 カリッ、と。


 進路希望調査の真っ白な紙に、俺は迷いなく『埼玉私立○○大学』と書き込んだ。


 この街に残り、俺を真っ直ぐに見つめてくれるあいつの隣にいるという、俺なりの決断だった。


「あ、先輩! お疲れ様です!」


 放課後、校門を出たところで、自動販売機の横からなぎさがひょっこりと顔を出した。


 一年生らしい、少し短めのスカートと、夏の日差しで少し焼けた肌。


 彼女は俺を見つけるなり、パッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。


「なぎさ、また待ってたのか。暑いのに」


「だって、今日は一緒に帰るって約束しましたもん。……それより、進路希望、出してきたんですか?」


 なぎさが俺の顔を覗き込む。


 その瞳には、隠しきれない不安が揺れていた。


 俺がどこか遠くの、自分の手の届かない場所へ行ってしまうんじゃないか。


 そんな怯えが、小さな肩から伝わってくる。


「ああ。地元の大学にしたよ。……ここからなら、電車ですぐだ」


「本当ですか……!? ああ、よかったぁ……!」


 なぎさはその場にへたり込みそうになるほど安堵し、次の瞬間、俺の腕にぎゅっとしがみついてきた。


 いつもより少しだけ大胆なその強さに、俺の心臓が小さく跳ねる。


「ずっと、ずっと先輩のことが心配だったんです。どこか遠くに行っちゃうんじゃないかって。……嬉しい。私、先輩が卒業しちゃうまで、いえ、卒業してからもずっと、一番近くで応援できます!」


「ずっとファンでした」と入学式の日に告げられてから、なぎさの真っ直ぐな言葉には何度も救われてきた。


 俺にとって彼女はもう、ただの可愛い後輩という枠を、とうに飛び越えようとしている。


「でも……」


 なぎさは俺の腕を掴んだまま、少しだけいたずらっぽく小首をかしげた。


「そんなに近くの大学にして、瑞生先輩に怒られちゃいますね。『もっと上を目指しなさい』って、絶対お説教されますよ?」


「……かもな。でも、これが俺の決めたことだから」


「ふふ、そうですよね。先輩のそういうところ、大好きです!」


 夕暮れの通学路。


 なぎさの弾むような声が、文化祭と体育祭を控えた賑やかな校舎に溶けていく。


 少しずつ薄暗くなり始めた空の下、きらきらと星のように瞬く彼女の笑顔を見つめていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 選ばなかった別の未来(月)の後悔がないと言えば、嘘になるかもしれない。


 けれど、腕に伝わるこの確かな温もりを、俺はもう絶対に手放さない。


 埼玉の空の下、俺となぎさの、新しくて温かい季節が始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。