第71話 星といつもの水面
オレンジ色の西日が机の端を掠め、俺の前には一枚のプリントが置かれている。
「進路希望調査票」
これまで何度も目にしてきたはずのその紙が、今はインターハイのスタート台よりも重く、鋭く俺を試しているように見えた。
俺はペンを握ったまま、耳の奥で響く三つの「声」を思い出していた。
「……どうかな、大学でもまた、私と一緒に泳がない?」
佐伯先輩の、凛とした声。競泳の世界でさらなる高みを目指し続ける彼女と同じ大学へ行き、またあの眩しい隣で泳ぐ未来。
「勝手に遠くに行かないでください……!」
なぎさの、震える声。引退した俺のために不器用にケーキを焼き、真っ直ぐに「好き」をぶつけてくれた後輩。
「高橋くんらしく頑張ってね」
そして、中学の卒業式で松岡先生がくれた、温かな声。再会した彼女の背中を追って教育大学へ進み、誰かの原点になれるような自分を目指す生き方。
未来(月)か、今(星)か、それとも原点(太陽)か。
窓の外からは、まだ現役で練習を続ける水泳部の、かすかなホイッスルの音が聞こえてくる。
俺は深く、深く息を吐き出すと、ようやくペン先に力を込めた。
カリッ、と。
進路希望調査の真っ白な紙に、俺は迷いなく『埼玉私立○○大学』と書き込んだ。
この街に残り、俺を真っ直ぐに見つめてくれるあいつの隣にいるという、俺なりの決断だった。
「あ、先輩! お疲れ様です!」
放課後、校門を出たところで、自動販売機の横からなぎさがひょっこりと顔を出した。
一年生らしい、少し短めのスカートと、夏の日差しで少し焼けた肌。
彼女は俺を見つけるなり、パッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「なぎさ、また待ってたのか。暑いのに」
「だって、今日は一緒に帰るって約束しましたもん。……それより、進路希望、出してきたんですか?」
なぎさが俺の顔を覗き込む。
その瞳には、隠しきれない不安が揺れていた。
俺がどこか遠くの、自分の手の届かない場所へ行ってしまうんじゃないか。
そんな怯えが、小さな肩から伝わってくる。
「ああ。地元の大学にしたよ。……ここからなら、電車ですぐだ」
「本当ですか……!? ああ、よかったぁ……!」
なぎさはその場にへたり込みそうになるほど安堵し、次の瞬間、俺の腕にぎゅっとしがみついてきた。
いつもより少しだけ大胆なその強さに、俺の心臓が小さく跳ねる。
「ずっと、ずっと先輩のことが心配だったんです。どこか遠くに行っちゃうんじゃないかって。……嬉しい。私、先輩が卒業しちゃうまで、いえ、卒業してからもずっと、一番近くで応援できます!」
「ずっとファンでした」と入学式の日に告げられてから、なぎさの真っ直ぐな言葉には何度も救われてきた。
俺にとって彼女はもう、ただの可愛い後輩という枠を、とうに飛び越えようとしている。
「でも……」
なぎさは俺の腕を掴んだまま、少しだけいたずらっぽく小首をかしげた。
「そんなに近くの大学にして、瑞生先輩に怒られちゃいますね。『もっと上を目指しなさい』って、絶対お説教されますよ?」
「……かもな。でも、これが俺の決めたことだから」
「ふふ、そうですよね。先輩のそういうところ、大好きです!」
夕暮れの通学路。
なぎさの弾むような声が、文化祭と体育祭を控えた賑やかな校舎に溶けていく。
少しずつ薄暗くなり始めた空の下、きらきらと星のように瞬く彼女の笑顔を見つめていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
選ばなかった別の未来(月)の後悔がないと言えば、嘘になるかもしれない。
けれど、腕に伝わるこの確かな温もりを、俺はもう絶対に手放さない。
埼玉の空の下、俺となぎさの、新しくて温かい季節が始まろうとしていた。




