第70話 月とともにスタート台へ
インカレ(日本学生選手権)という大きな目標を終えた、九月の夜。
名古屋の熱気もようやく落ち着きを見せ始め、開け放した窓からは秋の訪れを告げる虫の声が聞こえてくる。
俺のワンルームアパートの小さなテーブルには、コンビニで買ったささやかなお祝いのケーキが二つ並んでいた。
「……本当にお疲れさま。海くん」
不意に名前を呼ばれ、俺はフォークを止めて顔を上げた。
「え……今、なんて?」
「何よ、変な顔して。……もう付き合ってるんだし、いつまでも『高橋くん』じゃ他人行儀でしょ。私も名前で呼ぶって決めたの」
先輩――瑞生さんは、少し照れくさそうに視線を逸らして、紅茶のカップを口に運んだ。
出会った頃の彼女は、俺にとって絶対的な「先輩」だった。
水泳の実績でも、精神的な強さでも、俺の遥か先を泳いでいた人。
広島の花火大会で一度、彼女の手を離してしまったときは、もう二度と隣に並ぶことなんてできないと思っていた。
でも、今は違う。
俺たちは名古屋という新しい場所で、お互いの弱さも、不器用な優しさも知った。
スーパーでの遭遇、二人で食べたハンバーグ、あるいは酔った夜の告白。
積み重ねてきた時間が、俺たちの距離を「先輩と後輩」から、もっと別の場所へと変えていた。
「……そうですね。じゃあ、俺も」
喉の奥が少しだけ熱くなる。ずっと胸の中で大切に温めていた響きを、ようやく形にする時が来た。
「……瑞生さん」
その名前を口にした瞬間、心の中に爽やかな風が吹き抜けたような気がした。
瑞生さんは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたけれど、すぐにふにゃりと眉を下げて、これまでに見たことがないほど柔らかな笑みを浮かべた。
「……合格。やっと呼んだわね」
彼女がテーブル越しに手を伸ばしてくる。
俺はその細い指を、もう迷わずに握り返した。
瑞生さんはカップを置くと、少しだけ身を乗り出して俺の顔をじっと見つめた。
狭いアパートの一室。
さっきまで聞こえていたはずの虫の声も、今は遠くの出来事のように思える。
「……海くん。私、名古屋に来て、あなたに再会できて本当に良かった。……もう、どこにも行かないでね」
かすかに震えるその声に応えるように、俺は彼女の顔をそっと引き寄せた。
触れるだけの、静かな、けれど確かな感触。
それは水族館で繋いだ手の温もりよりも、あの夜の酔った勢いでの抱擁よりも、ずっと深く俺たちの心を繋ぎ合わせる儀式だった。
唇が離れると、瑞生さんは真っ赤になった顔を隠すように俺の肩に顔を埋めた。
「……今の、インカレのレース前より緊張したわ」
そう言って笑う彼女の背中に腕を回し、俺は確信した。
広島で離してしまった過去、名古屋で積み上げた葛藤。そのすべてが、今、この瞬間のためにあったんだと。
窓から入り込む九月の夜風が、二人のじれったい時間を過去へと押し流していく。
開け放した窓から差し込む優しい月明かりが、寄り添う二人の影を、静かに、そして温かく包み込んでいた。
「海くん、これからもよろしくね。プールの中でも、……プールの外でも」
「はい。ずっと隣で泳がせてください。……瑞生さん」
一度は離れてしまった二つの流れが、名古屋の空の下で一つに重なり、新しい季節へと向かってゆったりと流れ出した。
俺たちの物語は、ここからまた、新しく始まっていく。
【月編 第二部完】




