第69話 月と真夏の再演
八月も終わろうとする週末。名古屋から少し足を延ばした半島の沿岸には、数千発の光が打ち上がる準備が整っていた。
「……花火大会? 私を?」
部活の帰り際、誘った時の先輩の驚いた顔が忘れられない。
あの酔った夜のことは「覚えていない」ことになっているけれど、あの日以来、二人の間には薄い膜を隔てたような、もどかしい緊張感が漂っていた。
波音が心地よく響く海岸沿い、集まった人混みの中で現れた先輩は、藍色の浴衣に身を包んでいた。
「……慣れないことするもんじゃないわね。歩きにくいわ」
そう言って、少し窮屈そうに歩幅を狭める先輩。
彼女の浴衣姿を見るのは、高校二年生の夏祭り以来だった。
あの時のどこか儚げだった白地の浴衣とは違い、夜の海に溶け込むような深い藍色は、今の先輩をずっと大人びて、そして綺麗に見せた。
「これ、一ヶ月遅れましたけど。……誕生日、おめでとうございます」
人混みが激しくなる前に、俺は用意していた小さな箱を差し出した。
中身は、あの水族館の「青」を思い出させるような、細身のブレスレット。
「……高橋くん。あなた、あの日……」
先輩が何かを言いかけて、すぐに口を噤んだ。
記憶にないはずの夜の残像が、二人の間に一瞬だけ浮かんで消える。
「……ありがとう。大切にするわ」
花火が始まった。
ドン、という振動が砂浜を通じて腹に響くたびに、海面が極彩色に染まる。
かつて高校生のあの夜、不器用な優しさであんず飴をくれた先輩。
あの時の俺は、心の中にある松岡先生との過去の残像を振り払えず、差し出された手を握り返すことすらできなかった。
「……先輩」
「なに?」
「あの時、返事ができなくて、本当にすみませんでした」
轟音にかき消されないよう、俺は先輩の耳元で、でもはっきりと告げた。
先輩の肩が、びくっと跳ねる。
「……なんのこと? 私、酔ってて覚えてないって言ったじゃない」
「嘘だって分かっています。……俺、もう自分の気持ちから逃げたくないんです」
俺は、先輩の浴衣の袖をそっと引いた。
場所は違っても、あの夜の続きを今、ここで終わらせるために。
「俺、先輩が好きです。名古屋に来て、先輩と一緒に過ごして……この先もずっと、隣で一緒に泳いでいたいのは、先輩なんだって気づきました」
打ち上がった大きな菊牡丹が、海風に吹かれる先輩の顔を真っ白に照らし出す。
光が消えた一瞬の静寂、夜空に凛と浮かぶ満月の白い光が、今度はその大きな瞳に溜まった涙をきらきらと美しく映し出した。
「……遅すぎるわよ、本当に」
先輩の手が、震えながら俺の手を求めて伸びてくる。
かつて一度、自分の迷いのせいで離してしまったその手を、今度は俺から、指を絡めて強く、強く握りしめた。




