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第68話 月と琥珀色の残像

 玄関先で崩れ落ちそうになった先輩を、俺は慌てて抱きかかえるようにして部屋に入れた。


 カーペットの上に座らせようとしたけれど、先輩は俺のシャツを掴んだまま離そうとしない。


「……先輩、とりあえず座って。水、持ってきますから」


「……いらない。……行かないで」


 潤んだ瞳で見上げられ、心臓が痛いほど跳ね上がる。


 いつもなら「高橋くん!」と苗字で呼ぶ彼女が、今は熱を帯びた吐息混じりに、俺という存在そのものを求めている。


 気づけば、俺も限界だった。


 この一ヶ月、会いたくて、声が聞きたくて、でも実績への重圧や遠征の忙しさに押し殺していた感情が、目の前の無防備な彼女を見て決壊した。


 俺は、先輩の細い肩を引き寄せ、力強く抱き締めた。


「……っ、高橋、くん……」


「……すみません、遅くなって。……誕生日、おめでとうございます」


 腕の中の先輩は、驚いたように一瞬体を硬くしたけれど、すぐにふわりと力を抜き、俺の背中に手を回してきた。


「……ばか。……本当に、遅いんだから」


 小さく漏れた声は、いつもの厳しい先輩ではなく、ただの寂しがり屋な女の子のものだった。


 エアコンの冷気が届かないほど、二人の間には熱い密度が生まれていた。


 翌朝。


 カーテンの隙間から差し込む強い陽光で、俺は目を覚ました。


 俺のベッドの上には、タオルケットにくるまって眠る先輩の姿。


「……ん、……あ」


 ゆっくりと目を開けた先輩が、自分の置かれた状況を理解したのか、ガバッと起き上がった。


「……な、何よ、ここ……高橋くんの部屋!?」


「あ、おはようございます。昨夜、先輩が酔っ払って訪ねてきて……」


 俺は昨夜の出来事をどこまで話すべきか迷いながら、恐る恐る言葉を繋いだ。


「……嘘。私、そんなに飲んだの?」


 先輩は真っ赤な顔で頭を抱えている。


「……ごめんなさい、全然覚えてない。……私、何か変なこと言った? 迷惑かけた……?」


「……え」


 記憶がない。


 あの、俺の胸に頭を預けて「寂しかった」と漏らしたことも。


 俺がたまらなくなって抱き締めた、あの熱い抱擁のことも。


「……いえ。別に、普通でしたよ。誕生日おめでとうって言えなかったのを、少し怒られたくらいで」


 俺は咄嗟にそう嘘をついた。


 覚えていないのなら、この記憶は俺だけのものにしておこう。


 そう決めたはずなのに、胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。


「……そう。よかった。……本当に、忘れて。穴があったら入りたいわ」


 先輩は逃げるように荷物をまとめると、いつもの「凛とした先輩」の顔を作ってドアへ向かった。


 けれど、一瞬だけ振り返った彼女の耳の先が、朝日に透けて真っ赤に染まっていたのを、俺は見逃さなかった。

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