第67話 月と八月の空白
八月、名古屋の夏は、逃げ場のない熱気とプールの塩素の匂いに支配されていた。
インカレの地区予選を終え、そのまま九月の本戦に向けた強化合宿と遠征、そして束の間の実家への帰省。
カレンダーが真っ黒に埋まる一方で、佐伯先輩との時間は反比例するように消えていった。
八月は先輩の誕生月だ。
何か贈りたい、せめて当日におめでとうと言いたい。
そう思っていたのに、遠征先での電波の悪さや、過酷な練習メニューの後の泥のような眠りに邪魔され、結局まともな連絡すら取れないまま、誕生日は過ぎていった。
「……やっと、終わった」
月末の夜。
ようやく名古屋のワンルームに戻ってきた俺は、荷物も解かずにベッドに倒れ込んだ。
会いたい。
けれど、忙しいのは先輩も同じはずだ。
今さら誕生日の話を切り出すのも、自分勝手な気がして。
暗い部屋で一人、そんな思考の海に沈んでいた、その時だった。
――ピンポーン。
静まり返った部屋に、唐突にインターホンが鳴り響いた。
こんな時間に誰だろう。
鈴木がまた冷やかしに来たのか、それとも……。
半信半疑でドアを開けた俺は、そこに立つ人物を見て息を呑んだ。
「……佐伯、先輩……?」
そこには、いつもの凛とした雰囲気とは程遠い、どこかふわふわとした足取りの先輩が立っていた。
頬は桃色に染まり、少し潤んだ瞳が俺を捉える。
ふわりと漂ってきたのは、いつものシャンプーの香りではなく、微かなアルコールの匂いだった。
「……遅い。……帰ってくるの、遅すぎるわよ、高橋くん」
「先輩? もしかして、酔ってるんですか……?」
「酔ってない。……ちょっと、学部の打ち上げで飲まされただけ。……でも、どうしても、あなたの顔が見たかったの」
そう言うなり、先輩は俺の胸に頭を預けるようにして、力なく倒れ込んできた。
開け放たれたドアから差し込む淡い月光が、重なり合う二人の影を、狭いフローリングに静かに映し出す。
いつもなら「シャキッとしなよ!」と俺を叱咤するはずの強い腕が、今は縋るように俺のシャツを掴んでいる。
「……誕生日。……おめでとうって、言ってくれなかった……」
耳元で聞こえる、甘えるような、泣き出しそうな声。
普段の「完璧な先輩」の仮面が剥がれ落ち、剥き出しになった彼女の本音が、夏の夜の熱気と一緒に俺の心に流れ込んでくる。
俺は戸惑いながらも、その細い肩をそっと抱きとめた。
一ヶ月分の空白が、一瞬で熱を帯びて埋まっていくのを感じながら。




