第66話 月と贅沢な夕食
鈴木に目撃された動揺を引きずったまま、俺たちは逃げるように先輩のアパートへと戻った。
部屋に入っても、先輩の頬はまだほんのりと朱に染まったままだ。
「……もう、鈴木くんたら。明日、部室に行くのが怖いわ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、先輩は手際よくエプロンを締め、キッチンに立った。
「さっさと食べて、練習の疲れを取りましょう。今日はハンバーグよ」
ボウルの中でひき肉をこねる規則正しい音が、静かな部屋に響く。
その音を聞きながら、俺はふと、過去に食べたハンバーグの味を思い出していた。
かつて、松岡先生が味見させてくれた調理実習の試食の味。
そして、なぎさと一緒に昼休みに食べたお弁当の味。
あの時も、確かに美味しいと思った。
それは間違いのない事実だ。
けれど、今、目の前で俺のために一生懸命、形を整えている先輩の背中を見つめていると、それらとは全く違う感情が胸を突き上げてくる。
「……高橋くん、ソースはデミグラスでいい?」
「あ、はい。……お願いします」
じゅう、と肉の焼ける香ばしい匂いが部屋に広がる。
運ばれてきたハンバーグは、少し形が不揃いで、先輩の性格を表すように実直な佇まいをしていた。
一口、口に運ぶ。
溢れ出す肉汁と一緒に、喉の奥まで熱い何かが広がった。
「……美味しい」
「そう? ちょっと焼きすぎちゃった気がするけど」
「いえ、今まで食べた中で、一番美味しいです。……本当に」
お世辞でも、空腹のせいでもない。
今の俺が求めているのは、過去の誰かでも、理想の誰かでもない。
今、隣で「よかった」と胸を撫でおろしているこの人を、心から愛おしいと思っているから。
その「大好きだ」という実感が、どんなスパイスよりも強く味覚を揺さぶる。
広島で一度は手を離してしまったけれど、その遠回りがあったからこそ、今この場所で食べる食事の価値が、痛いほど理解できた。
「……高橋くん、顔、赤いよ? 暑い?」
「……いえ、なんでもないです」
俺は誤魔化すように、二口目を頬張った。
七月の夜、エアコンのきいた室内。
アパートの小さなテーブルで、俺は人生で最も贅沢な味を噛み締めていた。




