第65話 月と水面下の共犯者
大学生活が始まって三ヶ月。
梅雨明け間近の、七月の週末。
じりじりと照りつける太陽がアスファルトを焼き、屋内プールの湿った熱気とはまた違う、逃げ場のない暑さが名古屋の街を包んでいた。
期末試験の準備と夏休みの強化練習を控え、束の間のオフ。
俺たちは駅近くのスーパーに寄ることにした。
「外食もいいけど、さすがに夏場は栄養バランス考えないとバテるわよ。今日は私がスタミナがつくものを作るわ」
そう言ってカゴを手に取った先輩は、手慣れた様子で食材を選んでいく。
並んで歩きながら、特売の豚肉をカゴに入れる先輩の姿は、プールサイドでの凛々しさとはまた違う、温かな生活感に溢れていた。
俺は少し照れくさくて、重くなったカゴを代わるように受け取る。
「あ、高橋くん、ありがとう」
自然に手が触れ、お互いに一瞬だけ視線を逸らす。
一ヶ月前、あの水族館の青い光の中で手を繋いでから、俺たちの間には言葉にできない「約束」のようなものが流れていた。
けれど、その穏やかな時間は唐突に遮られた。
「あれっ? 佐伯さんに、高橋じゃん! お前ら、こんなところで何してんだ?」
通路の向こうから響いたのは、同じ水泳部の同期、鈴木だった。
隣には他学部の女の子を連れていて、あっちも買い物中のようだった。
「あ、鈴木くん。……別に、ただの夕飯の買い出しよ」
先輩が今までに見たことがないほど素早く、かつ不自然に落ち着き払ったトーンで言い返した。
けれどカゴの中には、明らかに二人分はある食材が並んでいる。
「買い出しねぇ。わざわざ二人きりで?」
鈴木はニヤニヤしながら、俺たちの間をじろじろと見つめてくる。
「高橋、お前、先輩の佐伯さんと『特別練習』か? 隅に置けないなぁ。練習中よりいい顔してるぜ」
「いえ、そういうわけじゃ……。名古屋の地理を案内してもらっていただけで」
俺の言い訳は、自分でも驚くほど苦しかった。
一ヶ月前の「迷子防止」という言い訳も、スーパーのレジ前ではさすがに通用しそうにない。
「ふーん。まぁいいや、邪魔しちゃ悪いしな。あ、でも明日、主将に報告しといてやるよ。『高橋は佐伯さんにマンツーマンで可愛がられてます』ってさ!」
「……ちょっと、鈴木くん。変なこと言いふらしたら、本当に承知しないから」
先輩の静かな制止も聞かず、鈴木は彼女を連れて笑いながらレジの方へ消えていった。
静まり返った青果コーナー。
「……高橋くん」
「はい」
「……今の、絶対部内に広まるわね。スーパーで一緒に買い物なんて、言い逃れできないわ」
先輩は溜息をつき、けれど、どこか諦めたような、それでいて少しだけ嬉しそうな、複雑な微笑みを浮かべた。
「隠し通すのは、もう無理そうね。……高橋くんが、嫌じゃなければ、だけど」
先輩のその言葉に、俺はもう一度、今度は確信を持って重くなったカゴを持ち直した。
「……嫌なわけ、ないじゃないですか」
七月の強い陽射しが、入り口から差し込んでいる。
スーパーでの遭遇という「生活感あふれる事故」を経て。
部内の誰も知らない秘密を共有した、水面下の共犯者。
俺たちの夏が、本格的に始まろうとしていた。




