第64話 月と水底の迷子たち
大学生活が始まって二ヶ月。梅雨入りが発表されたばかりの、六月の週末。
朝練を終えてアパートに戻ると、窓の外ではしとしとと静かな雨が降り始めていた。
湿り気を帯びた風が、練習で火照った体にまとわりつく。
『今日の午後、空いてる? 名古屋を案内してあげる』
送り主は、もちろん佐伯先輩だ。
「案内」という言葉を使っているけれど、二人きりで出かけるのは名古屋に来てから初めてのことだった。
待ち合わせ場所に現れた先輩は、プールの塩素の匂いを一切感じさせない、柔らかなブラウス姿だった。
いつも結んでいる髪を下ろしているせいか、どこか遠い街の知らない女性のように見えて、俺は少しだけ気圧される。
「……何、ぼーっとしてるの。行くわよ、高橋くん」
少しだけぶっきらぼうに歩き出す先輩の後を追う。
向かった先は、港にある水族館だった。
「名古屋と言ったら、まずはここかなと思って」
巨大な水槽の前。
回遊する魚たちの群れが、青い光を反射してキラキラと輝いている。
横に並んで泳ぐのは慣れているけれど、こうして並んで歩くのは、まだどこか落ち着かない。
ふと、隣を歩く先輩の指先が、俺の手に触れた。
「……ねえ、高橋くん。ここに来てから、水泳のこと以外でこんなにゆっくり話すの、初めてじゃない?」
先輩の視線は、水槽の奥を見つめたままだ。
「そうですね。……毎日、あの青い水面ばかり見てますから」
「そうよね。……でも、たまにはこういう『違う青』を見るのも、悪くないわね」
先輩がふっと微笑む。
その穏やかな表情を見て、俺は胸の奥が締め付けられるような感覚に陥った。
全国三位という実績を背負ってこの大学に来た俺には、周囲からの期待という目に見えない重圧が常に付きまとっている。
けれど、この人の隣にいる時だけは、重荷を下ろして、ただの生意気な後輩に戻れるような気がした。
「……高橋くん」
不意に名前を呼ばれ、振り返る。
青い光に照らされた先輩の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「広島であの日、高橋くんが私の手を離したとき……私、もう二度とこうして隣を歩くことはないんだって思ってた」
投げかけられた過去の言葉に、喉の奥が熱くなる。
広島の夜。
鉄板の熱気の中で先輩に想いを告げられたとき、俺は自分の心にある「金魚の栞」の主への想いを捨てきれず、差し出された手を握り返すことができなかった。
でも、今は違う。
名古屋という新しい街で、先輩の不器用な優しさに触れ、何より俺自身がこの人の隣にいたいと願ってここにいる。
俺は、先輩の指が掴んでいる自分のシャツの上から、そっとその手を包み込んだ。
「……っ!」
先輩がびくっと肩を揺らし、顔を上げる。
「……高橋、くん……?」
「広島では、すみませんでした。……でも、もう、逃げたりしませんから」
俺は繋いだ手に力を込め、指を絡めた。
かつて一度、俺の手から零れ落ちてしまったその温もり。
今度は自分からしっかりと引き寄せ、その重みを感じる。
先輩は一瞬、泣きそうな顔をして俺を見つめていたけれど、数秒後、真っ赤な顔をしてぷいっと視線を逸らした。
「……な、何よ。急に格好つけて」
先輩は繋いだ手を振り払おうとはせず、むしろ少しだけ強く握り返しながら、静かに、けれど微かに震える声で続けた。
「……これ、迷子防止だから。高橋くん、この辺の地理に疎そうだし、人混みでいなくなったら面倒でしょ」
「……ここ、水族館の順路ですよ? 迷いようがないですけど」
「……いいの。先輩がそう言ったらそうなの。……ほら、行くわよ」
少しだけ声を潜めてそう言うと、先輩は前を見据えたまま、俺の手を引いて歩き出す。
繋いだ手から伝わる鼓動は、どちらのものか分からないくらいに速い。
言葉にして「付き合おう」と決めたわけじゃない。
けれど、名古屋の青い光の中で重ねたこの手は、どんな言葉よりも雄弁に二人の「今」を物語っていた。
水族館を出ると、いつの間にか雨は上がっていた。
港を吹き抜ける柔らかな潮風が、熱を持った二人の頬を静かに撫で去っていく。




