第63話 月と朝凪のひそめ言
「……高橋、くん……?」
至近距離で見つめ合う。
先輩の瞳に、戸惑いと、隠しきれない熱が灯っているのが分かった。
腕から伝わる先輩の体温は、広島の鉄板の熱よりもずっとダイレクトに、俺の理性を焼き切ろうとする。
「……あ、すみません……」
俺が慌てて腕を引こうとすると、先輩の指先が、一瞬だけ俺のシャツの袖を強く掴んだ。
けれど、すぐに我に返ったように手を離し、先輩はガバッと起き上がった。
「……練習の疲れが出ちゃっただけ。気にしないでね」
フローリングに敷かれたカーペットの上に座り直し、顔を背けながらそう告げる先輩。
耳の先まで真っ赤になっているのが、この薄暗い部屋の中でもはっきりと分かった。
「……す、すみません。俺、寝相が悪くて……」
「ううん、違うの。私のせい……。私も、その、たぶん寝相が悪くて、寝返りを打っているうちに……こうなっちゃったんだと思う」
俺の言葉を遮るように、静かに、けれど明らかに余裕のない口調で言い訳を紡ぐ先輩。
「……とにかく、もう遅いから。さっさと自分の部屋に帰りなさい。明日、朝練なんだから」
いつもの「厳しい先輩」のトーン。けれど、その声は微かに震えていた。
俺は逃げるように先輩の部屋を後にした。
自分のワンルームに戻っても、心臓の音はうるさいままだった。
暗い部屋で一人、自分の腕を見つめる。
そこにはまだ、先輩の頭の重みと、柔らかな髪の感触が残っている。
広島であの日、俺が先輩を拒んでいなければ。
もし、あの「金魚の栞」を贈った過去に縛られず、すぐに頷いていれば。
「……バカだな、俺」
今さら悔やんでも遅いけれど、名古屋まで追いかけてきた自分の答えは、もうとっくに決まっている。
全国三位という実績があっても、俺をここまで引き上げてくれたのは、間違いなく先輩のあの真っ直ぐな視線だった。
今の俺が、隣にいたいのは。隣で泳ぎ続けたいのは、佐伯先輩だけだ。
翌朝。
大学のプールサイドは、朝独特のひんやりとした空気に包まれていた。
他の部員たちが来る前の静寂。
水面は鏡のように滑らかで、朝日が差し込んでキラキラと輝いている。
先にプールに入っていた先輩が、力強いストロークでこちらへ泳いできた。
水面から顔を上げた彼女は、昨夜の動揺など微塵も感じさせない、いつもの凛とした表情だった。
「遅いわよ、高橋くん。アップ、さっさと済ませなさい」
「――っす」
俺は何も言わず、先輩の隣のコースの台に足をかける。
二人で並んでストレッチをする間、一言も言葉は交わさない。
けれど、指先が触れそうになるたび、昨夜のカーペットの上での「重なり」が脳裏をよぎり、心拍数が跳ね上がる。
「……ねえ」
飛び込もうとした俺の背中に、先輩の声が低く落ちた。
振り返ると、先輩はゴーグルを直しながら、プールに入ったまま背中を向けていた。
「……昨日のこと、忘れていいわよ。でも」
先輩が少しだけ顔を横に向ける。
水飛沫に濡れた横顔が、朝日の中で一瞬だけ、悪戯っぽく、そして愛おしそうに綻んだ。
「……腕枕、悪くなかったかなぁ。……じゃ、行くわよ。今日も高橋くんに負けないんだから」
言うなり、先輩は力強く壁を蹴った。
いつだって挑戦者として向かってくるその背中に、俺は堪えきれずに小さく笑った。
離れたくない、水の中でも、水の外でも。
俺は迷いなく、彼女が作った水の軌跡へと飛び込んだ。




