第62話 月と引力のうたた寝
大学のハードな二部練習を終えると、外はすっかり日が落ちていた。
高校時代よりも遥かに強度の高いメニューに、俺の体は鉛のように重い。
けれど、隣のコースで一切妥協せずに泳ぎ切った佐伯先輩の姿を思い出すと、不思議と足取りは軽かった。
「……高橋くん、今日はもう自炊する体力ないでしょ。うちで食べていったら?」
ぶっきらぼうにそう告げる先輩の横顔には、まだ少しだけ練習の熱が残っている。
あの日、広島の夜。
一度は先輩の想いを辞退してしまった後ろめたさが、俺の胸のどこかにおりのように溜まっている。
だからこそ、こうして誘ってもらえることが救いでもあり、同時に、はっきりとした関係を切り出せない臆病な自分を自覚させていた。
先輩もまた、二度目の言葉を口にするのを恐れているかのように、あえて「先輩と後輩」の距離感を保とうとしているのが伝わってくる。
先輩の部屋は、どこか落ち着く石鹸のような匂いがした。
「今日は簡単なものだけど、我慢してね」
そう言って並べられたのは、先輩が手際よく作った生姜焼きと、山盛りのキャベツだった。
「……美味しいです。先輩、料理も得意だったんですね」
「一人暮らしを始めたら、嫌でも覚えるわよ。体を作るのも練習のうちでしょ?」
他愛もない会話。
けれど、その行間には、言葉にできない熱が漂っている。
食後、カーペットの上に並んで座りながら、今日の練習動画を確認していたはずだった。
ハードなトレーニングによる心地よい疲労と、部屋の適度な暖かさ。
睡魔に勝てず、俺は「ちょっとだけ……」と、自然にカーペットの上へと横になってしまった。
テレビから流れる低いニュースの音を子守唄に、俺の意識はゆっくりと沈んでいった。
――ふと、肌に触れる柔らかな熱で、俺の目が覚めた。
「……あ」
視界がはっきりした瞬間、心臓が爆発するかと思った。
いつの間にか、俺の左腕に佐伯先輩が頭を乗せてぐっすりと眠っている。
いわゆる、完璧な『腕枕』の体勢だった。
(な、なんで!? どういう状況だこれ……っ!?)
一気に脳が覚醒し、冷や汗が吹き出る。
俺が先に寝落ちしたのは間違いない。
ということは、先輩が後から俺の隣にやってきて、この腕に自ら頭を乗せたということになる。
いつもなら「風邪引くわよ」と叩き起こすはずのあの人が、誰も見ていないこの部屋で、こっそり俺に甘えようとしたのだろうか。
そう気付いた瞬間、愛おしさと緊張で胸がはち切れそうになった。
すぐ近くにある、先輩の寝顔。
濡れたままだった髪が乾いて、俺の頬をくすぐる。
いつもは誰よりも鋭い視線を水面に送っているあの人が、今は俺の腕の中で、無防備に、少しだけ幼い寝息を立てていた。
腕からダイレクトに伝わる、先輩の柔らかな体温。
ドクン、ドクン、と自分でも驚くほど大きな鼓動が、静かな部屋に鳴り響く。
あまりの音の大きさに、先輩が起きてしまうんじゃないかと本気で焦る。
(動けない……っ! 腕を引いたら絶対に起きる。でも、このままだと心臓の音がバレる……!)
パニックに陥る俺の横で、先輩の長い睫毛が微かに揺れた。
ゆっくりと開かれた瞳が、至近距離にある俺の目と真っ向からぶつかる。
「……高橋、くん……?」
寝起きの掠れた声。
次の瞬間、先輩は自分がしでかした状況を理解したのだろう。
顔を一気に真っ赤に染め――けれど、なぜかプライドが邪魔をしたのか、それとも名残惜しいのか、腕を離そうとはしなかった。
広島での拒絶を経て、名古屋で再び重なり始めた二人の距離。
言葉にならない「答え」が、静まり返った部屋の中で、熱を持って溶け合おうとしていた。




