第61話 月と一間の水面
オレンジ色の西日が机の端を掠め、俺の前には一枚のプリントが置かれている。
「進路希望調査票」
これまで何度も目にしてきたはずのその紙が、今はインターハイのスタート台よりも重く、鋭く俺を試しているように見えた。
俺はペンを握ったまま、耳の奥で響く三つの「声」を思い出していた。
「……どうかな、大学でもまた、私と一緒に泳がない?」
佐伯先輩の、凛とした声。競泳の世界でさらなる高みを目指し続ける彼女と同じ大学へ行き、またあの眩しい隣で泳ぐ未来。
「勝手に遠くに行かないでください……!」
なぎさの、震える声。引退した俺のために不器用にケーキを焼き、真っ直ぐに「好き」をぶつけてくれた後輩。
「高橋くんらしく頑張ってね」
そして、中学の卒業式で松岡先生がくれた、温かな声。再会した彼女の背中を追って教育大学へ進み、誰かの原点になれるような自分を目指す生き方。
未来(月)か、今(星)か、それとも原点(太陽)か。
窓の外からは、まだ現役で練習を続ける水泳部の、かすかなホイッスルの音が聞こえてくる。
俺は深く、深く息を吐き出すと、ようやくペン先に力を込めた。
カリッ、と。
進路希望調査の真っ白な紙に、俺は迷いなく『名古屋〇〇体育大学』と書き込んだ。
あの瞬間、俺の中で何かがカチリと音を立ててはまった。
それは、誰かのためでも、誰かに流されたわけでもない。
俺自身が、もう一度あの人の隣で泳ぎたいと心から願った結果だった。
――名古屋のワンルームマンション。
引っ越し業者が去った後の部屋はガランとしていて、自分の足音が必要以上に大きく響く。
ベランダの窓を開けると、都会特有の、少し埃っぽい風がカーテンを揺らした。見下ろす街並みは、見慣れた地元の景色とはまるで違う。
山積みにされた段ボールを眺めていると、脳裏に、あの日広島で食べたお好み焼きの熱気が蘇ってきた。
ソースが焦げる香りと、じりじりとした鉄板の熱気。
その中で、先輩から真っ直ぐな想いを告げられた。
けれど、当時の俺はまだ、中学の青いプールに気持ちを置き忘れたまま、松岡先生から卒業できていなかった。
『……すみません』
そう言って、差し出された手を一度は離してしまった、あの苦い夜。
それでも俺は、自ら引いた境界線を越え、先輩と同じこの街、この大学へとやってきてしまった。
「……高橋くん、片付けは終わったの?」
不意にインターホンが鳴り、ドアを開けると、そこには練習終わりのジャージ姿の佐伯先輩が立っていた。
少し濡れたショートヘアから、かすかにシャンプーの匂いが漂う。
一人暮らしを始めたせいか、それともこの街の空気に馴染んだのか。先輩の纏う雰囲気は、高校時代よりもどこか大人びて、研ぎ澄まされて見えた。
「先輩。……ええ、なんとか。でも、まだ段ボールだらけですよ」
「そう。じゃあ、夕飯は私の部屋に来る? 名古屋の味、教えてあげるわよ」
先輩のアパートは、俺の部屋から歩いてすぐの場所にあった。
案内された部屋は、彼女らしく清潔感に溢れ、本棚には水泳の専門書が整然と並んでいる。
女の子の部屋に二人きりというシチュエーションに、さっきから妙に心臓の音がうるさい。
二人並んで、買ってきたばかりの食事を囲む。
かつての、あの蝉時雨が降る屋外プールの喧騒の中ではあり得なかった、静かで、濃密な二人だけの時間。
「ねえ、高橋くん。……本当に良かったの? 名古屋まで来て」
先輩が、ふと箸を止めて、真面目な瞳で俺を見た。
「広島であんな風に断ったのに。……私についてきて」
俺も箸を置き、先輩の瞳をまっすぐに見つめ返した。
ここで誤魔化したら、男がすたる。
「広島の時は、まだ自分の中で整理がついていなかったんです。でも、その後ずっと考えて……。俺の答えは、やっぱり先輩の隣にしかないって気づきました。……後悔なんて、一ミリもしてません」
先輩は少しだけ驚いたように目を見開き、それから――今まで見たことがないほど甘く、どこか挑戦的な微笑みを浮かべた。
「……そう。なら、覚悟しなさい。大学の練習は、高校よりずっと厳しいわよ」
先輩の細く、だけどアスリートらしい引き締まった指先が、テーブルの上で俺の手へそっと重ねられる。
触れた肌の熱さに、息が止まりそうになった。
「……それから、私の隣にいることもね」
一度はすれ違った二人の、本当の「戦い」と「恋」が、この新しい水面でここから始まる。




