第58話 星と甘い香りの特等席
午後に、カフェでの宣戦布告から数日。
佐伯先輩の「好きだから」という言葉の余韻がまだ頭の隅に残っている俺に、なぎさはさらなる追い打ちをかけてきた。
「先輩、今度の土曜日、私の家に来てくれませんか?」
放課後。現役としてこれから練習に向かうなぎさと、引退して泳ぐことのなくなった俺。
校門で別れる間際、なぎさが少し頬を赤らめて切り出した。
「……家? 何かあったのか?」
「何か、じゃありません! インターハイ三位の祝勝会、まだちゃんとしてないじゃないですか。……私、先輩のためにケーキを作りたいんです」
なぎさの誘いに、俺の心臓は一つ、大きな音を立てた。
部活という枠組みを離れ、プライベートな空間に招かれる。
それは、彼女が「一人の女性」として俺に向き合おうとしている証拠のように思えた。
土曜日、手土産を握りしめて訪れたなぎさの家で、俺を待っていたのはエプロン姿の彼女だった。
「先輩、いらっしゃい! さあ、座ってください」
普段の制服や部活のジャージ姿とは違う、柔らかな私服にネイビーのエプロンを纏ったなぎさ。
いつもは高く結んでいる髪が、今日は後ろでゆるくまとめられていて、どこか大人びて見える。
胸元にうっすらと残る白い小麦粉の跡が、一生懸命に作ってくれた時間を物語っていて、俺は玄関を入った瞬間からどうしようもなくドギマギしていた。
テーブルの上には、形こそ少し不格好だが、たっぷりの生クリームと苺で彩られたホールケーキが置かれていた。
「これ、昨日から一生懸命練習して作ったんです。……食べてくれますか?」
期待と不安が入り混じったような、潤んだ瞳で見つめられる。
俺はフォークを手に取り、一口運んだ。
「……旨い。甘すぎなくて、丁度いいな」
「本当ですか!? よかったぁ……!」
なぎさは顔を輝かせ、椅子から身を乗り出すようにして喜んだ。
その拍子に、彼女から甘い砂糖の匂いと、シャンプーの香りがふわりと漂う。
「私、先輩が食べてくれるところを想像しながら作ってる時、すごく幸せだったんです。……佐伯先輩みたいに水泳の詳しいアドバイスはできないけど、私は、先輩のこういう笑顔を一番近くで見ていたいんです」
なぎさは、夜空で懸命に、けれど誰よりも熱く光を放つ一番星のような瞳で、真っ直ぐに俺を見つめる。
松岡先生の差し出す未来が、俺の心をどこまでも明るく引っ張ってくれる「太陽」だとしたら。
佐伯先輩の言葉が、美しい輝く夜の海へと誘う「月」の引力だとしたら。
目の前で不器用に笑うなぎさの想いは、暗闇の中で決して俺を見失わないようにと、すぐ傍で優しく瞬いてくれる「星」の温かさそのものだった。
「……なぎさ、ありがとう」
「どういたしまして! でも、お礼は食べ終わってからたっぷり聞きますからね?」
茶目っ気たっぷりにウインクする彼女の可愛さに、俺はケーキの甘さとは別の、胸が締め付けられるような熱いドキドキを感じていた。
たとえ部活での立場が変わっても、この時間を失いたくない。
その想いが、俺の中で確かな形になり始めていた。




