↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
57/100

第57話 星と月の残り香

 「……急にこんな話をしても困るわよね。ゆっくり検討してみて」


 佐伯先輩は、飲み終えたコーヒーカップを置いて静かに立ち上がった。その所作の一つひとつが、やはりどこまでも洗練されていて、夜空を巡る「月」のように気高く美しい。


「でも、これだけは覚えておいて。私があなたを誘うのは、実力を認めているからだけじゃないわよ」


 先輩は俺の横を通り過ぎる際、ふと足を止めた。そして、俺にだけ聞こえるような微かな声で、けれど確かな熱を込めて囁いた。


「……また隣で泳ぎたいって、ずっと思ってたの。高橋くんのことが、好きだから」


 耳元を掠めたその言葉に、俺の心臓は今日一番の激しさで跳ね上がった。静寂を好むはずの月が、一瞬だけ太陽よりも熱く俺の心を焦がしたようだった。


 先輩はそれ以上何も言わず、軽く手を挙げて店を出て行った。残されたのは、彼女が纏っていた清涼感のある香りと、俺の耳の奥で鳴り止まない鼓動だけだった。


「……先輩」


 重苦しい沈黙を破ったのは、隣に座るなぎさだった。


 見ると、彼女は膝の上で拳を強く握りしめ、唇を震わせていた。


「佐伯先輩、ずるいです。あんなの、反則です……」


 なぎさの瞳には、圧倒的な月の光に押し潰されそうになった悔しさと、焦りが入り混じった涙が浮かんでいた。


 でも、彼女はそれを手の甲で強く拭うと、俺に向かって真っ直ぐに顔を上げた。その眼差しは、先日のレースの時よりも鋭く、夜空に身を焼きながら輝く一番星のように力強い。


「私、絶対に負けませんから! 水泳も、……先輩への気持ちも!」


「なぎさ……」


「佐伯先輩がどんなに凄くても、今の先輩の隣にいるのは私です! 大学だって、私が三年生になったら追いかけます。だから、……勝手に遠くに行かないでください!」


 なぎさの宣戦布告は、静かなカフェの空気を一変させた。その真っ直ぐな叫びは、冷たい月明かりを掻き消すほどに、激しく、熱く瞬いていた。

 

 かつて全国を一緒に追いかけた孤高の先輩から告げられた、二度目の不意打ちの告白。


 環境も、実力も、すべてが遠い世界にいる先輩からの切実な言葉。


 後輩から突きつけられた、真っ直ぐすぎる情熱。


 窓の外では、夏の終わりの夕暮れが街を赤く染め始めていた。


 引退して静かになるはずだった俺の日常は、二人の「好き」という言葉によって、かつてのどんなレースよりも激しく揺れ始めていた。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。