第57話 星と月の残り香
「……急にこんな話をしても困るわよね。ゆっくり検討してみて」
佐伯先輩は、飲み終えたコーヒーカップを置いて静かに立ち上がった。その所作の一つひとつが、やはりどこまでも洗練されていて、夜空を巡る「月」のように気高く美しい。
「でも、これだけは覚えておいて。私があなたを誘うのは、実力を認めているからだけじゃないわよ」
先輩は俺の横を通り過ぎる際、ふと足を止めた。そして、俺にだけ聞こえるような微かな声で、けれど確かな熱を込めて囁いた。
「……また隣で泳ぎたいって、ずっと思ってたの。高橋くんのことが、好きだから」
耳元を掠めたその言葉に、俺の心臓は今日一番の激しさで跳ね上がった。静寂を好むはずの月が、一瞬だけ太陽よりも熱く俺の心を焦がしたようだった。
先輩はそれ以上何も言わず、軽く手を挙げて店を出て行った。残されたのは、彼女が纏っていた清涼感のある香りと、俺の耳の奥で鳴り止まない鼓動だけだった。
「……先輩」
重苦しい沈黙を破ったのは、隣に座るなぎさだった。
見ると、彼女は膝の上で拳を強く握りしめ、唇を震わせていた。
「佐伯先輩、ずるいです。あんなの、反則です……」
なぎさの瞳には、圧倒的な月の光に押し潰されそうになった悔しさと、焦りが入り混じった涙が浮かんでいた。
でも、彼女はそれを手の甲で強く拭うと、俺に向かって真っ直ぐに顔を上げた。その眼差しは、先日のレースの時よりも鋭く、夜空に身を焼きながら輝く一番星のように力強い。
「私、絶対に負けませんから! 水泳も、……先輩への気持ちも!」
「なぎさ……」
「佐伯先輩がどんなに凄くても、今の先輩の隣にいるのは私です! 大学だって、私が三年生になったら追いかけます。だから、……勝手に遠くに行かないでください!」
なぎさの宣戦布告は、静かなカフェの空気を一変させた。その真っ直ぐな叫びは、冷たい月明かりを掻き消すほどに、激しく、熱く瞬いていた。
かつて全国を一緒に追いかけた孤高の先輩から告げられた、二度目の不意打ちの告白。
環境も、実力も、すべてが遠い世界にいる先輩からの切実な言葉。
後輩から突きつけられた、真っ直ぐすぎる情熱。
窓の外では、夏の終わりの夕暮れが街を赤く染め始めていた。
引退して静かになるはずだった俺の日常は、二人の「好き」という言葉によって、かつてのどんなレースよりも激しく揺れ始めていた。




