第56話 星と月が揺れる水面
結局、なぎさも「お祝いしたいのは私も同じですから」と食い下がり、三人で駅前の静かなジャズが流れるカフェに入ることになった。
琥珀色の照明に照らされた店内は、嘘のように落ち着いている。
俺を挟んで、大学生の佐伯先輩と、後輩のなぎさが向かい合って座った。
「……なぎささん。インターハイのあなたのレース、録画で見たわ」
先輩は運ばれたブラックコーヒーを一口啜り、淀みのない口調で切り出した。
その姿は、夜の湖に静かに佇む「月」のように、美しい。
「ターン後のバサロ、少し浮き上がりが早いわね。そこをあとゼロコンマ数秒堪えられれば、抵抗が減ってタイムはもっと伸びるはずよ」
水泳に対して一切の妥協がない先輩の言葉は、一年生のなぎさにとっても否定できない重みがあった。
なぎさは一瞬、その圧倒的な月の光に気圧されたように背筋を伸ばしたが、すぐに「……ありがとうございます」と真剣な表情で頷いた。
「高橋くんも、そう思わない?」
「えっ……あ、ああ。確かに、なぎさはターン後に焦る癖があるからな」
不意に話を振られ、俺は生温くなったアイスティーを飲み込んだ。
なぎさは俺と先輩が当然のように同じ高い視点を共有していることに、唇を噛んで俯いた。
「……先輩たちは、去年もこうやって、二人で上を目指してたんですね」
絞り出すようななぎさの声に、一瞬だけ沈黙が流れる。
そこへ、佐伯先輩が静かに、けれど決定的な一言を投げかけた。
「ええ。だから、私は高橋くんを今日、誘いに来たの」
先輩は月のように澄んだ瞳で、俺を真っ直ぐに見つめた。
「高橋くん。私の大学、環境は最高よ。コーチもあなたのスタイルを高く評価してる。……どうかな、大学でもまた、私と一緒に泳がない?」
その言葉は、誘いというよりも、一つの「道」を提示されているようだった。
地元を離れた新しい場所で、さらに高みを目指す勝負の世界。
そこには、まだ俺の知らない「佐伯先輩」がいる。
「なっ……!」
なぎさが息を呑み、俺の腕をテーブルの下でぎゅっと掴んだ。
その手は、夜空で寒さに震えながら必死に光を放つ一番星のように、小さく震えている。
「そんなの……! そんなの、先輩が遠くに離れちゃうじゃないですか……!」
なぎさの悲痛な叫びが、静かな店内に響く。
中学時代、松岡先生が全国へ導いてくれた。
高校時代、佐伯先輩が隣で共に戦ってくれた。
二人が繋いでくれた「競泳選手としての俺」という誇りを、今はなぎさが必死に受け止め、隣で俺の体温を感じている。
(松岡先生が教えてくれた情熱、後輩のなぎさが支えてくれた優しさ、それによって今の俺がいるんだ)
けれど、先輩が差し出した、どこまでも高く冷たく輝く「月」の未来の眩しさから、目を逸らすこともできなかった。
地元を離れ、かつての憧れである先輩とまた高い場所を目指す道。
一方で、今この手の中に伝わってくる、なぎさという「星」の震える熱。
コーヒーの香りと、なぎさの手の熱さ。
俺の心は、先輩が導いてくれた「水泳の世界」でのさらなる高みと、目の前にある「なぎさとの日常」の間で、激しく揺れ動いていた。




