第55話 星と月の交差点
地元に戻り、部活のない静かな放課後が始まった。
プールのない生活は、想像以上に手持ち無沙汰で、俺は所在なく駅前の商店街を歩いていた。
「――高橋くん」
聞き慣れた、涼やかで透明感のある声に足を止める。
振り向いた先、街路樹の木陰に凛として立っていたのは、大学生になり少し大人びた雰囲気を纏った佐伯先輩だった。
「先輩……! お久しぶりです。どうしてこちらに?」
「インターハイ三位、聞いたわ。……おめでとう。あの大舞台で結果を残すなんて、流石ね」
先輩は、現役時代と変わらない冷静なトーンで、けれど確かな祝福を口にした。
今は大学一年生。
この春から地元を離れ、遠方の大学に進学して一人暮らしを始めた先輩。
強豪の大学水泳部で研鑽を積んでいる彼女は、立っているだけで周囲の空気を引き締めるような美しさと、落ち着いた知性を感じさせた。
まるで、まだ明るい夕暮れの空に、静かに、けれど圧倒的な存在感で浮かび上がる「月」のようだった。
「ありがとうございます。先輩にそう言ってもらえると、本当に……」
「お祝いをさせて。少し落ち着いた場所で話したいな。駅の近くに素敵なカフェを見つけたの」
先輩の誘いに、俺は背筋が伸びる思いで頷いた。
「広島焼き」の約束は、インターハイに一緒に行くという目標のための大切な絆だったけれど、今の彼女が選んだカフェの外観は、大学生になった彼女の、どこか冷たくも美しい月の光によく似合っていた。
先輩と二人でカフェに入ろうとした、その時だった。
「……あ、先輩!?」
背後から、弾んだ、けれどどこか驚きに満ちた声が響く。
振り返ると、そこにはなぎさが立っていた。
彼女は俺の隣に立つ、圧倒的な美貌とオーラを放つ女性を見て、目を見開いた。
「なぎさか。買い物帰り?」
「はい……って、その方は……」
なぎさは、佐伯先輩を前にしてたじろいでいた。
去年の大会、客席から「憧れの先輩」として俺を見ていたとき、その隣で切磋琢磨していた佐伯先輩の姿も見ていたはずだ。
なぎさにとって、彼女は雲の上の存在だった。
「こちらは佐伯先輩。去年まで水泳部で一緒に練習してたんだ。先輩、彼女は今年入った後輩のなぎさです」
俺の紹介に、佐伯先輩は月のように静かで冷静な瞳をなぎさへ向けた。
「……あなたが、今年の一年生。インターハイの結果は聞いているわ。同じ部員として、よく彼をサポートしてくれたわね」
「あ……はい。松岡なぎさです。よろしく、お願いします……」
なぎさはぺこりと頭を下げたが、次の瞬間、俺の袖をギュッと掴んだ。
先輩の余裕を感じさせる言葉が、なぎさの中の幼い独占欲に火をつけたのかもしれない。
月明かりに押し潰されそうになりながらも、なぎさの瞳は、負けまいと夜空でチカチカと強く瞬く一番星のように、熱い光を宿していた。
「……佐伯先輩。高橋先輩のすぐ隣のポジションは、今は私が守ってますから」
消え入りそうな声だったが、そこには確かな意志が宿っていた。
すべてを見透かすように冷静に佇む、大学生の佐伯先輩。
その光に怯まないよう、一生懸命に自分の輝きを主張する、後輩のなぎさ。
同じプールで時間差を駆け抜けてきた新旧の「後輩と先輩」が交錯する駅前で、俺はとてつもない居心地の悪さと、胸の鼓動の速さを同時に感じていた。




