第五章:太陽とエプロンの裾
五月中旬。中間テストが近づき、部活動が一時休止になる直前の放課後。
俺は学級委員の仕事で、生徒会のアンケートをまとめ、北校舎の端にある調理室へと向かっていた。
入り口の引き戸を少しだけ開けると、じゅう、という肉の焼ける音と、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「失礼します……。松岡先生、これ、クラスのアンケート結果です」
奥の調理台でフライパンを振っていた松岡先生が、こちらを振り返って目を丸くした。今日はいつものジャージ姿に、薄黄色のエプロンを重ねている。
「あ、高橋くん。わざわざ持ってきてくれたんだ、ありがとう! そこの台に置いといてもらえる?」
「いいですよ。……ハンバーグですか?」
「そう。来週の実習の予習。玉ねぎの炒め具合とか、火が通るタイミングを確かめておきたくて。……高橋くんも、一口食べる? 試食係がいなくて困ってたんだ」
彼女が差し出した小皿には、小さく切ったハンバーグが載っていた。口に運ぶと、肉汁がじゅわっと広がる。
「……うまいです。これなら、実習で失敗する奴いないんじゃないですか」
「本当? よかった……」
彼女はホッとしたように息を吐き、隣の調理台の椅子に腰を下ろした。窓の外には、今は誰もいない屋外プールが見える。
「……ねえ、高橋くん。最近、昼休みも中庭でトレーニングしてるでしょ?」
不意に投げかけられた言葉に、俺の手が止まった。
「調理室からよく見えるんだよ。みんなが教室で遊んでる時間に、一人で筋トレしてるのが。……何か、そこまで君を突き動かす目標があるのかなって」
真っ直ぐな問いではなかった。ただ、彼女が日々、生徒の様子をちゃんと見ようとしてくれていることが伝わってくる、穏やかな声。
だからこそ、俺も自然に、自分の目標を口にできた。
「……全中です。中学最後の夏に、全国の舞台に立ちたいんです」
自分の声が、静かな調理室に響く。
「厳しいのは分かってます。でも、あそこに行かないと見えない景色がある気がして。……だから、少しでも体を追い込んでおきたいんです」
松岡先生は、しばらく黙ってプールを見つめていた。やがて、ゆっくりと俺の方を向き、感心したように、でも優しく微笑んだ。
「そっか。……目標に向かって真っ直ぐなところ、本当に尊敬しちゃうな。私なんて、自分の授業の準備だけで精一杯なのに」
彼女は少しだけ背筋を伸ばし、俺の目を見て言った。
「私にできるのは、こうしてたまに試食をお願いするくらいかもしれないけど。でも、高橋くんがその夢を叶えられるように、陰ながら応援させてね」
五月の風が、開け放たれた窓から吹き込み、彼女のエプロンの裾を揺らした。
全国へ行く。
その理由は、これまで「自分のため」だけだった。
でも今は、この先生に「応援していて良かった」と思わせたいという新しい感情が、胸の中で静かに熱を帯びていた。




