第六章:太陽と揺れる栞
六月、京都。
梅雨入り前の湿った空気が、修学旅行生で賑わう清水坂にまとわりついていた。
三年の俺たちにとって、この修学旅行は夏の大会前の最後のリフレッシュだ。周りの連中は「あっちの店に可愛い子がいる」だの「縁結びの神社に行こう」だのと盛り上がっているが、俺の頭の片隅には、この場所にはいない一人の顔があった。
一年生の担任である松岡先生は、当然この旅行には来ていない。
今頃、静かになった学校で、慣れない授業や副担任の仕事に追われているはずだ。
「おい高橋、何ぼーっとしてんだよ。お土産買うぞ」
佐藤に背中を叩かれ、俺は立ち並ぶ土産物屋の一軒に足を踏み入れた。
家族への八ツ橋を適当に選び終えたとき、レジの脇にある小さなコーナーが目に留まった。
そこには、ちりめん細工の和雑貨が並んでいた。
その中に、ふと、薄黄色のエプロンと同じ色の、小さな金魚の刺繍が入った「栞」を見つけた。
(……あ。これ、あの人に似合うかも)
水泳部の顧問なのに泳げなくて、危なっかしくて。でも、図書室で一生懸命ノートを開いて勉強していた彼女。
いつもファイリングやノートの整理に手間取っている彼女なら、これを使えば少しは助かるんじゃないか。
だが、俺はすぐに手を止めた。
中学生の男子が、学年の違う女の先生にお土産を買うなんて、どう考えても不自然だ。佐藤に見つかったら、絶対に「お前、家庭科の松岡先生のこと好きなのか?」と冷やかされる。
「高橋、それ買うのか? お前、読書なんて趣味だったっけ」
「……いや、別に。……でも、これ、金魚が水泳部っぽいから。部室のノートにでも挟んどけばいいかと思って」
自分でも驚くほど下手な嘘が口をついた。
迷いに迷った末、俺は小銭を払い、その小さな栞をポケットにねじ込んだ。
その日の夜、旅館の布団の中で、俺はポケットの中の薄い感触を確かめていた。
なぜ、自分はあんな嘘までついてこれを買ったんだろう。
ただの顧問への感謝なら、言葉だけで十分なはずだ。
なのに、あの先生の笑った顔や、調理室から漂うハンバーグの匂いばかりを思い出してしまう。
「……まじかよ」
天井を見つめながら、俺は自分の心拍数が、昼間の坂道を歩いたときよりも速くなっていることに気づいた。
認めたくなかった。
全国を目指すストイックな自分が、あんなに頼りなくて、あんなに「先生らしくない」人に、こんなにも惹かれているなんて。
修学旅行が終われば、すぐ夏が来る。
この栞を渡すとき、俺はどんな顔をすればいいんだろう。
ポケットの中の小さな秘密は、六月の夜の闇の中で、静かに、でも確かに熱を帯びていた。




