第四章:太陽と湿ったインクの部屋
四月の終わり。午後から降り出した雷雨は、屋外プールしかない俺たちの部活をあっさりと中止に追い込んだ。
水泳部にとって、雷雨は天敵だ。水温は下がるし、視界も悪くなる。何より、落雷の危険性がある屋外では、雷がなっただけで即撤収がルールだった。
俺は一人、なんとなく図書室へ足を向けた。雨の日の放課後、すぐ家に帰る気になれなかったのは、全国大会という目標が頭の片隅でずっと急かしてくるからだ。
静まり返った室内。窓を叩く雨音が、古い校舎の静寂を際立たせている。
適当な本でも眺めて時間を潰そうかと思ったその時、窓際の席に見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「……松岡先生?」
声をかけると、彼女は肩を跳ねさせて振り返った。
「あ、高橋くん! びっくりした……。今日は雨、残念だったね」
彼女の目の前には、何冊もの本が積み上げられていた。
それも、料理の本ではない。
『競泳のトレーニング解剖学』『最新・水泳と抵抗の理論』『水泳におけるメンタルケアとコーチング』――。
付箋が何枚も貼られた専門書と、びっしりと文字が書き込まれたノート。
「先生、何してるんですか」
「……あはは、バレちゃった。その、私、全然知識がないから。屋外での練習メニューとか、これからの季節の健康管理とか……少しでもみんなの役に立ちたいなと思って」
彼女は照れくさそうに笑って、ノートを隠すようにパタンと閉じた。
家庭科の準備で忙しいはずなのに。居眠りするほど疲れているはずなのに。
泳げもしないと言っていた彼女が、俺たちがいない場所で、俺たちのために努力をしていた。
正直、見直した。
ただの「頼りない大人」だと思っていたのに、彼女は彼女なりに、俺たちの顧問になろうとしてくれていたんだ。
「……これ、結構古い本ですよ。今のフォームの主流とは少し違うかも」
俺は彼女の隣に座り、積み上げられた本の一冊を手に取った。
「えっ、そうなの? 難しいなぁ……。高橋くん、もしよかったら教えてくれる? 君が今、どんなことを考えながら泳いでるのか」
まっすぐに太陽のように見つめられる。
自販機の前で見せた、あの情けないほど先生らしくない反応とは違う。そこには、俺という選手を理解しようとする、真剣な「教師」の目があった。
「……まあ、いいですけど。俺、教えるの厳しいですよ?」
「お手柔らかにお願いします、高橋先生」
彼女が悪戯っぽく笑って、新しいページを広げる。
図書室の古い紙の匂い。
雨の音に包まれた狭い空間で、俺たちの距離は、プールサイドにいる時よりもずっと近く感じられた。
外は冷たい雨が降っているのに、なぜか胸の奥がじんわりと熱い。
俺は、彼女が開いたノートの端に、自分の得意な種目のポイントを、ゆっくりと書き込み始めた。




