第40話 月と境界線の向こう側
お好み焼き屋を出ると、夜の広島はまだ熱を孕んだ風が吹いていた。
路面電車の音が遠くで響き、祭りの後のような静けさが通りを包んでいる。
「……高橋くん」
並んで歩く歩道で、先輩が立ち止まった。
街灯に照らされた彼女の横顔は、店の中にいた時よりもずっと穏やかに見えた。
「さっきの答え、もういいよ。……私から、辞退させてもらってもいいかな」
俺は言葉を失い、隣に立つ先輩を見つめた。
「今の君の目、見てたらわかっちゃった。……君の心の中にいるその人は、ただの『思い出』じゃないんだね。今も君を動かしている、消せない光なんだ」
先輩はそう言って、悪戯っぽく、でもどこか寂しそうに笑った。
「そんな顔の君に『はい』って言わせるほど、私は厚かましくないわよ。……それに、先生を忘れるために私と付き合われるのも、やっぱり嫌だしね」
「……先輩、俺は」
「謝らないで。君がそれだけ一途になれる人に出会えたのは、素敵なことだと思うから。……でもね、勘違いしないで」
先輩が、一歩俺に近づいた。
あの花火の夜と同じように、でも今度は力強く、俺のジャージの袖を指先で弾いた。
「『今は』付き合わないってだけ。……私は、諦めないから」
夜風に髪をなびかせながら、先輩は宣言した。
「広島の夏は終わっちゃったけど、私たちの水泳はまだ続くわよ。君がその人をいつか整理して、前を向いた時。その隣にいるのが私であるように、もっと速くなって、もっといい女になってやるんだから」
その真っ直ぐな言葉に、俺の胸の奥がじんわりと熱くなった。
俺が引く水の線の行き先は、まだどこまでも続いている。
路頭に迷いながらも、いつか胸を張ってあの太陽のような先生に、そして、誰よりも気高く美しいこの月のような先輩に追いつき、会いに行けるその日まで。
俺は、この複雑で、熱い鼓動を抱えたまま、今シーズンの終わりを迎えることとなった。
【月編 第一部完】
第40話までお読みいただき、ありがとうございます。
初めて書いた作品で、ここまで読んでいただけるのは本当にありがたいです。
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これから高校3年生編へ進むと、最後の後輩ヒロインが登場し、物語は分岐地点へと動き出します。
明日からも読んでいただけるとうれしいです。




