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第39話 月と鉄板の熱と答えの在り処

 全国の壁は、俺たちが想像していたよりもずっと高く、厚かった。


 結果は二人とも予選敗退。


 けれど、全力を出し切った後の倦怠感は、不思議と心地よかった。


 一年前、絶望の中で見上げた花火の夏とは、心の持ちようが根本から違っていた。


「……お待たせ。やっぱり本場のは迫力が違うわね」


 駅近くの活気ある店。


 目の前の鉄板で、職人が手際よく広島焼きを焼き上げている。


 あの日、招集所の裏で俺が口走った突飛な約束。それを果たす時が、ようやくやってきた。


「……先輩。お疲れ様でした。約束、果たせましたね」


「そうね。……高橋くんがいなかったら、私はこの味を知らないまま引退してた。本当に、ありがとう」


 コテでお好み焼きを切り分けながら、先輩がふと、いつもの「部長」ではない、柔らかい少女の顔で笑った。


 湯気の向こう側で、ソースの焦げる香ばしい匂いが立ち込める。


 その匂いに誘われるように、俺の記憶の蓋が静かに開いた。


 かつて全中で、松岡先生が笑いながら食べた、大阪のお好み焼き。


 あの時、俺は先生の言葉に救われ、先生という光だけを追いかけ全国大会に出場できた。


 でも今、俺の目の前で熱々の広島焼きを頬張り、「美味しい」と笑っているのは、先生ではなく先輩だ。


「……先輩」


 俺が切り出すと、先輩は持っていたヘラを鉄板に置き、真っ直ぐに俺を見た。


 その瞳は、逃げることを許さないほど真剣だった。


「……あの日、花火の下で言われたこと。俺の答え、聞いてもらえますか」


「……その前に、一つだけ聞いていい?」


 先輩の声が、少しだけ低くなる。


「高橋くんが言っていた、『どうしても消せない、整理しきれていない人』。……それって、どんな人なの?」


 不意を突かれた。


 先輩はあの日、俺が「他に人がいる」と告げたことを、ずっと自分の中で反芻していたのだ。


「……どんな人、ですか」


 俺は視線を鉄板の熱い蒸気に逃がした。


 水泳は全く知らなくて、どこかちょっと抜けていて、でも俺が一番苦しい時に、まるですべてを見透かしたように隣にいてくれた人。


 太陽のように温かくて、一緒にいるとこちらまで温かくてなる感じで。


「……俺に、泳ぐ理由をくれた人です。それから、誰かのために頑張るっていうことが、どれほど自分を強くしてくれるかを教えてくれた人です」


 口にすればするほど、自分の中の松岡先生という存在の大きさに、改めて胸が苦しくなる。

 

 先輩はそれを聞き、少しだけ寂しそうに、でも慈しむように微笑んだ。


「そう……。素敵な人なんだね。君がそこまで大切にするくらい」


 先輩は、ソースのついたコテを無意識にいじりながら、続けた。


「私、その人に勝てるかな。……それとも、勝負することさえ、まだ許してもらえない?」


 その言葉は、俺の心の最も柔らかい部分を容赦なく突いた。


 松岡先生は中学校の先生で、俺はもうそこを卒業した生徒でしかない。


 先生と付き合うことなんてできないって、頭ではずっとわかっているのに。


 でも、先輩にこうして真っ直ぐに向き合われるたび、俺は自分の「不誠実さ」に気づかされてしまう。


 鉄板の上で、ソースの雫が弾けて音を立てる。

 俺はゆっくりと顔を上げ、先輩の瞳を見つめ返した。


「……勝負とか、勝ち負けとか。そんなふうに思ったことは一度もありません。ただ、俺は……」


 広島の夜。ソースの焦げる匂いと、目の前の熱。


 俺は今、先生が教えてくれた「誰かと約束をする幸せ」を、別の誰かと分かち合っている。


 俺はもう、水の底で一人きりで震えていた、あの頃の中学生ではない。


 鉄板の熱が、頬を赤く染める。


 遠い太陽の面影を追いかけるのをやめて、今、目の前で静かに俺を照らしている「月」に、俺は初めて、自分の手で過去と現在の境界線を引き直そうとしていた。

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