第38話 月と広島への長い路
インターハイ前日。
広島へと向かう新幹線の中、俺の心臓はさっきから異常なリズムを刻んでいた。
あれから数週間。
駅のホームで花火の下、あんなに熱い告白をしてきたのが嘘みたいに、佐伯先輩は普段通りに振る舞っていた。
練習中も、そして今、新幹線の隣の席に座っている時も、彼女はいつも通りの「頼れる部長」であり、俺の「ストイックな相棒」だった。
普通でいられないのは、俺の方だ。
ふとした瞬間に先輩の肩が触れたり、窓の外を眺める彼女の横顔を見たりするたびに、あの日ジャージの裾を掴んだ指先の感触が蘇り、顔が熱くなる。
車窓の暗がりにぼんやりと浮かぶ先輩の輪郭は、昼間だというのに、どこかあの日の月光のように静かで、危うい引力を放っていた。
「……高橋くん、顔赤いよ? 緊張してる?」
不意に顔を覗き込まれ、俺は慌てて座席に深く背中を預けた。
「……いえ、別に。広島、暑そうだなと思って」
「そうね。でも、私たちの心の方がもっと熱くないと勝てないわよ」
先輩はそう言って、悪戯っぽく笑った。
その笑顔に裏表なんてなさそうで、余計に俺の動悸は激しくなる。
ふと目を閉じると、記憶が混濁し始める。
中学の県大会、予選で全中を逃して絶望していた俺に、松岡先生がくれた冷えた栄養ゼリーと、あの「お好み焼き」の約束。
あの時、先生を前にして感じた、胸を締め付けられるようなドキドキ。
そして今、隣にいる先輩がくれた「広島焼き」という新しい約束と、あの夜の告白。
この胸の騒ぎは、先輩のことが好きだからなのか。
それとも、先輩とのやり取りの中に、今も必死に追い続けている松岡先生の面影を探してしまっているからなのか。
新幹線が広島駅に滑り込む。
用意されたホテルの部屋は、運命のいたずらか、先輩と隣同士だった。
壁一枚隔てた向こう側に、あの夜、まっすぐに俺だけを求めて揺れていた「月」がいる。
そう思うだけで、部屋の静寂が急に息苦しくなった。
松岡先生。
一昨年の全中は、先生が隣の部屋で寝てて。
でも今年の夏、俺の隣の部屋には別の人がいて、俺の心は前よりもずっと複雑に揺れています。
明日、俺は人生で最も速いタイムを出さなければならない。
けれど今の俺は、このドキドキの正体さえ掴めないまま、広島の熱い夜に飲み込まれようとしていた。




