第37話 月と波紋と境界線
打ち上がる花火の轟音と、目の前で俺のジャージの裾を握りしめる先輩の震える指先。
「好きだ」という言葉が、夜の空気に溶けずにいつまでも俺の耳の奥で鳴り響いていた。
返事を待つ先輩の瞳は、期待と不安が入り混じり、花火の光を反射してひどく綺麗だった。
ずっと夜空の遠くで気高く輝いていたはずの「月」が今、強い引力で、まっすぐに俺だけを求めて揺れている。
この瞬間、俺が「はい」と頷けば、きっと全てが変わる。
(……付き合えば、楽になれるのかもしれない)
だが、俺の心の中にこびりついて離れない、あの中学校のプールの幻影。
誰よりも俺のことをよく見てくれていた松岡先生。
あの温かい笑顔は、俺の心をいつでも、太陽のように真っ直ぐに照らしてくれた。
卒業して離ればなれになった今、先生と生徒という壁に加え、物理的な距離もある。
俺と先生が結ばれる可能性なんて、ゼロということは痛いほどわかっている。
目の前にいる先輩は、今の俺を必要としてくれている。
一緒に練習に励み、同じ悔しさを味わい、今日ようやく広島への切符を共に掴み取った最高のパートナーだ。
先輩と付き合えば、この行き場のない先生への執着も、いつか綺麗な思い出として整理できるのではないか。
そうすれば、もう「いつか最高の結果を報告する」なんていう、届くかどうかもわからない約束に縋らなくて済む。
けれど。
(……本当に、それでいいのか?)
俺が今日、先輩を励ますことができたのはなぜだ?
それは、先生がかつて俺にくれた言葉と、あのひだまりのような優しさを、今でも一言一句忘れずに心に刻んでいたからだ。
俺の泳ぎを、俺の心を形作ったのは、間違いなくあの先生が注いでくれた温かい時間だった。
その想いに蓋をして、寂しさを埋めるように先輩の手を取ることが、果たして誠実と言えるのだろうか。
先生を忘れるために先輩を利用するような真似は、俺を信じて告白してくれた先輩に対しても、自分に対しても、あまりに失礼なんじゃないか。
俺の沈黙が長引くほど、先輩の指に力がこもる。
「……先輩」
喉まで出かかった「ごめんなさい」も、「お願いします」も、今の俺にはどちらも正解とは思えなかった。
「……今の俺があるのは、先輩が隣にいてくれたからです。それは、本当です」
嘘偽りない気持ちを言葉にする。
「でも……俺の心の中には、まだ整理しきれていない、どうしても消せない人がいるんです。その気持ちを持ったまま、先輩の想いに答えることは、今はできません」
先輩の肩が、びくりと跳ねた。
俺は、彼女のジャージを握る手を、そっと自分の手で包み込んだ。
「広島に行きましょう。そこで精一杯泳いで、お好み焼きを食べて……。その時まで、もう少しだけ時間をくれませんか。俺が、俺自身の気持ちに決着をつけるための時間を」
夜空には、最後を飾る特大の花火が広がった。
一瞬、昼間のように明るく照らされた先輩の顔は、泣き出しそうなのを必死に堪えて、けれどどこか吹っ切れたように小さく頷いた。
「……ずるいわね、高橋くん。そんな言い方されたら、私……期待しちゃうじゃない」
松岡先生。
俺は初めて、答えを先延ばしにするという卑怯な真似をしてしまいました。
先生という「太陽」を追いかける自分を捨てきれず、けれど目の前で揺れる「月」の愛おしさも捨てられない。
広島の夏が、すぐそこまで迫っている。
俺が引く水の線がどこへ繋がっているのか、まだ、見つかりそうになかった。




