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第35話 月と決意の飛沫

 ようやく一年前の雪辱を晴らす日がやってきた。


 インターハイへと繋がる関東大会初日。


 会場となる公認プールのスタンドは、各校の応援と熱気で、外の暑さを忘れるほどに昂っていた。


 今日は俺と佐伯先輩、二人の出番がある日だ。


 午前中の予選。


 俺は自己ベストを更新し、この時点で全国大会の標準記録を突破、出場を確定させた。


 一方、先輩は組の一位でゴールしたものの、電光掲示板に表示されたタイムは、全国大会の標準記録にわずか「コンマ七秒」届かなかった。


 先輩に残されたチャンスは、午後の決勝、ただ一度きりだ。


「……高橋くん」


 招集所へ向かう直前、プールの裏手にある人気の少ない通路で、俺は先輩に呼び止められた。


 いつもの月のような凛とした姿。


 だが、ジャージ姿の彼女の肩は、微かに震えているように見えた。


「……予選、ごめんね。高橋くんはあんなに鮮やかに決めたのに、私はあと少しが届かなかった。……もし今日、切ることができなかったら、君と一緒に全国へ行けなくなっちゃう」


 先輩の声は、塩素の匂いが立ち込める空気の中に弱々しく消えていく。


 俺は、震える先輩の手に、自分の手をそっと重ねた。


「謝る必要なんてありません。予選であのタイムなら、決勝で競り合えば必ず切れます。先輩が誰よりも練習してきたのを、俺は隣で見ていましたから」


 俺は努めて淡々と、事実だけを告げた。


 けれど、先輩は納得したように頷く代わりに、俺のジャージの袖をぎゅっと掴んだ。


「……先輩。今年のインターハイの開催地は、広島ですよね?」


「え……? ええ、そうだけど」


 唐突な質問に、先輩が虚を突かれたように顔を上げる。


 俺は真顔で続けた。


「広島焼き、食べたくないですか?」


「……は? 広島焼き?」


 先輩は呆然とした声を出し、一瞬だけ震えが止まった。何を言い出すのか、という戸惑いが彼女の瞳に浮かぶ。


「俺、先輩と一緒に食べたいんです。広島の本場で、お腹いっぱい。……だから、行きましょう。俺はもう切符を手にしました。あとは先輩が広島行きのチケットを獲るだけです。……俺、先輩がいない広島なんて、ちっとも楽しくありませんから」


 自分でも驚くほど素直な言葉が口を突いて出た。


 かつて中学校の県大会で、松岡先生が「お好み焼き」の約束で俺を救ってくれたように、今の俺にはこの言葉しか思いつかなかった。


 先輩は、一瞬だけ目を見開き、それから弾かれたように笑った。


「……ふふ、あはは! 本当に、君は。……こんな時にまで、お腹の話なんて。……でも、そうね。広島焼き、一人で食べるよりは、君と食べたほうが美味しそうだわ」


 先輩は俺の袖を離し、自分の両頬をパチンと叩いた。


 その指先は、もう震えていなかった。


「分かったわ。……広島でお好み焼きね。二人でインターハイ出場のお祝いしようね」


 不敵に、けれど最高に綺麗な笑顔を見せて、先輩は招集所へと駆け出していった。


 松岡先生。


 先生が俺にくれた「魔法」を、今、先輩に使ってみました。俺は今、自分のタイムよりも、一人の人間の泳ぎに心を奪われています。

 

 俺は湧き上がる歓声の中、まばゆい光が注ぐプールサイドを見つめ、彼女の出番を静かに待っていた。

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