第34話 月と奪われた静寂
プールサイドから、絶えず黄色い声と賑やかな笑い声が聞こえてくる。
かつては俺と佐伯先輩の水しぶきの音だけが響いていたこの場所は、今や別世界のようになっていた。
「高橋先輩! さっきのターン、かっこよかったです!」
「あの、この後の補強運動、一緒にやってもいいですか?」
練習の間を縫って、一年生の女子部員たちが次々と話しかけてくる。
俺としては「ターン」や「補強トレーニング」の話ができるなら構わないのだが、彼女たちの目的はどうやらタイムを縮めることだけではないようだった。
「……高橋くん、あっちで呼ばれてるわよ」
少し離れたコースから、先輩がこちらを見ていた。
だが、その先輩の周りにも、下心を隠しきれない一年生の男子たちが群がっている。
「佐伯先輩、フォーム見てください!」
「先輩の教え方、すごく分かりやすいです! 練習後、少し時間ありますか?」
先輩は持ち前の面倒見の良さで対応しているが、どこか落ち着かない様子で、何度も俺の方へ視線を投げてくる。
二人の時間は、目に見えて減っていた。
今までは練習後にゆっくり話せていたのに、今は帰り道まで後輩たちが付いてきたり、部室前で待ち伏せされたりする。
練習後、部室棟の影にある水道で、俺たちは並んで道具を洗っていた。
後輩たちが着替えに消え、ようやく訪れた数分間だけの静寂。
「……ねえ、高橋くん」
先輩が、冷たい水に指先を浸したまま、低く呟いた。
「はい、何ですか」
「……これだけ部員が増えると、去年みたいにはいかないわね。……君は、寂しいとか、思わないの?」
先輩の瞳が、夕闇の中で微かに揺れている。
俺は、彼女に群がる男子部員たちの顔を思い出し、胸の奥が、水面に落ちた油膜のように波打つのを感じた。
「……正直に言えば、二人の時の方がよかったです」
その言葉は、俺自身の脳を介さずに出たようだった。
言い終えた瞬間、自分の心臓が跳ねる音が耳元まで届いた気がして、俺は手に持っていたセームタオルを強く握りしめた。
(……今、俺は何を言ったんだ?)
自分の言葉に、自分自身が一番驚いていた。
「……え?」
先輩が、水が流れるのも忘れたように顔を上げる。
俺は必死に、その言葉を「合理的」な理由で補強しようと言葉を継いだ。
「いや、その……ライバルである先輩と、もっと技術的な話を突き詰めたいのに、邪魔が入るのが非効率だという意味で……」
「……ふふ。そう、そうよね。……高橋くんらしいわ」
先輩は少しだけ頬を染め、いたずらっぽく、けれど優しく笑った。
一人の時間が、急に広くなったような気がした。
周りに人はたくさんいるのに、先輩の視線が自分だけを向いていない状況が、これほどまでに胸を圧迫するとは思わなかった。
松岡先生。
どれだけ周りが騒がしくなろうとも、俺の目指す場所は変わりません。
どんな状況であっても、あなたに素敵な報告できるように、タイムを、俺はただ刻み続けます。
気がつけば、夕闇がプールサイドを完全に包み込んでいる。
後輩たちの賑やかな声はもう遠く、目の前には、ただ冷たい水を湛えた静かなプールと、隣で小さく息を吐く先輩の後ろ姿だけが残されていた。




