第33話 月と予期せぬ追い風
四月、温室プールから学校の屋外プールへと練習拠点が戻るこの時期、水泳部には例年にない異変が起きていた。
部室棟の前には、入部届を手にした新入生たちが列をなしている。
「……ちょっと、これどういう状況?」
更衣室から出てきた佐伯先輩が、目を白黒させて俺に尋ねてきた。
無理もない。
去年までは俺と先輩、それに数人の部員が細々と活動する、いわゆる「古豪の弱小」が今のこの部の立ち位置だった。
「さあ……。でも、入部希望の理由なら、さっき何人かに聞きましたよ」
俺が淡々と説明を始めると、先輩の顔がみるみる赤くなっていった。
新入生たちの志望動機の半分は、去年の文化祭に端を発していた。
水泳部が出店した「焼きそば」のあまりの美味しさと、月のように凛としてテキパキと働く佐伯先輩の美少女ぶり、そして黙々と鉄板を操る俺の姿が、当時の中学生たちの間で密かに話題になっていたらしい。
「先輩の可愛さに惚れて入るってやつがかなりいました。あと、若干、俺のことをかっこいいっていう女子も。……意味が分かりません。そんな素振り見せたこともないのに……」
「……君は本当に無自覚ね。でも、理由はそれだけじゃないんでしょ?」
その通りだ。残りの半分の部員たちは、競技者として非常に真っ当な理由を口にしていた。
「はい。男女ともに全国レベルのタイムを持つ選手がいるから、と。俺と先輩の記録を見て、ここなら強くなれると思ったそうです」
文化祭での「華やかさ」と、大会での「確かな実績」。その両輪が、皮肉にも弱小校だったこの部を、一躍注目の的に押し上げてしまった。
溢れんばかりの新入生を前に、プールサイドはかつてない熱気に包まれている。
これまでは先輩と二人でプールを独占できていたが、今日からはそうはいかない。
「……賑やかになるわね。でも、高橋くん。私たちが目指す場所は変わらないわよ」
「もちろんです。部員が増えても、俺が刻むべきタイムは変わりません。……むしろ、見られることで、練習の質は上がるかもしれませんね」
俺がストレッチをしながら答えると、先輩は「やっぱり、そう来ると思った」と、少しだけ安心したように微笑んだ。
松岡先生。
俺の周りには、いつの間にかたくさんの人が集まるようになりました。先生に報告すべき「全国」の切符まで、この喧騒さえも自分の推進力に変えて、俺は泳ぎ続けようと思います。
二人で並んで見つめた先では、すでに何十人もの新入生たちがプールサイドを埋め尽くし、かつてないほどの騒がしい熱気が、春の光の中で渦巻いていた。




