第32話 月と甘すぎる誤算
二月中旬、学校から少し離れた温室プールの中は、湿り気を帯びた熱気に満ちていた。
水面に反射する蛍光灯の光が、黙々とインターバルを刻む俺たちの頭上で揺れている。
「……今日はここまでにするわ」
先に上がった佐伯先輩が、プールサイドでタオルを被りながら声をかけてきた。
真冬だろうと、俺たちのやることは変わらない。
ひたすら水を捉え、タイムを削る。そのストイックな静寂こそが、今の俺には心地よかった。
着替えを終えて温室の重い扉を開けると、外の冷気が一気に肌を刺した。
いつものように、施設を出たすぐのベンチで一息つくのが俺たちのルーティンだ。
「はい、これ。……今日は寒いから、早く温まって」
先輩が少しぶっきらぼうに差し出してきたのは、いつものステンレスボトルだった。
冬場の練習後、先輩はいつも俺に温かい紅茶を分けてくれる。
茶葉の香りが鼻に抜けるその時間は、全力で水を掻いたあとの高揚感を、そっと穏やかな静けさへと着地させてくれる大切な時間だった。
「ありがとうございます。……ん?」
カップに注がれた液体を一口飲み、俺は思わず喉を鳴らした。
いつもの透き通った琥珀色ではない。それは、驚くほど濃厚で、とろりとした深い茶色の液体だった。
「先輩、これ……ココアですか? 珍しいですね、いつもは紅茶なのに」
甘い香りが、冷え切った身体の隅々まで染み渡っていく。
「……そう見える?」
先輩は自分のカップを見つめたまま、少しだけ声を震わせた。
「ええ。すごく濃厚で美味しいです。疲れた身体に、この糖分は効きますね。さすが先輩、今日は一段と冷えるから、練習効率を考えて特別にメニューを変えてくれたんですね」
俺が感心してそう言うと、先輩は「……メニュー、ね」と力なく笑った。
俺は知らなかった。
今日がバレンタインだったこと。
そして、それが本当はどれほどの手間をかけて作られた「ホットチョコレート」であるかを。
板チョコを刻み、生クリームを加え、絶妙な火加減で練り上げられた、彼女なりの『本命』の形。
それを「効率的な糖分補給」として無邪気に飲み干してしまう俺に、先輩はそれ以上の説明をあきらめたようだった。
「……高橋くん。美味しい?」
「はい。今まで飲んだどのココアより、ずっと深みがあります」
「そう。……なら、いいわ。来年は、もっと甘くしてもいい?」
先輩の問いに、俺はカップを持ったまま少しだけ考え、それから申し訳なさそうに首を振った。
「……来年のこの時期は、もう先輩は部活を引退されています。受験も終わって、もうすぐ卒業っていう頃ですよね。そんな時に、俺なんかのためにわざわざ準備してもらうのは申し訳ないですよ」
俺が至極真っ当な「正論」を口にすると、先輩は一瞬だけ目を見開いた。
「……あなた、本当にそういうところ、全然変わらないのね」
先輩は呆れたように小さく溜息をついたけれど、その瞳には隠しきれない寂しさが揺れていた。
自分のカップに残った冷めかけの「ココア」を飲み干すと、いつも通り少し背筋を伸ばし、俺をまっすぐに見つめてくる。
「勘違いしないで。私が勝手に用意したいって言っているだけよ。……それに、部活を引退したからって、それきり赤の他人になるわけじゃないでしょう?」
「それはそうですけど……」
腑に落ちない俺を置いて、先輩は立ち上がると、白いショールの端を少しだけ強く握りしめた。
松岡先生。
今日の先輩がくれた飲み物は、驚くほど甘くて、少しだけ苦い味がしました。先輩が言った「来年」という言葉。その響きの中に、なぜか俺の知らない予感のようなものが混ざっていて。
俺は空になったカップを見つめながら、次の練習のメニューを必死に考え、この奇妙な動悸を誤魔化していた。




