第31話 月と深淵の初詣
一月三日、三が日の喧騒が残るなか、俺は地元の大きな神社の鳥居前に立っていた。
人混みはクリスマスの並木道以上だ。立ち込める線香の匂いが、冬の冷たい空気と混ざり合っている。
「……お待たせ、高橋くん」
声がした方を振り返り、俺は言葉を失った。
そこにいたのは、いつものジャージ姿でも、クリスマスのコート姿でもない。
落ち着いた紺色に小花が散らされた、艶やかな振袖を纏った佐伯先輩だった。
孤高の月のような綺麗なその佇まいに、俺はただ目を奪われていた。
「……これ、母に無理やり着せられたの。……どう、かしら」
先輩は、いつもより少し厚めに引かれた紅を気にするように、指先で唇をなぞった。
ふわりとした白いショールに包まれた首筋が寒空の下で眩しく、慣れない歩き方のせいか、その足元はどこか危うい。
「あ、先輩。……すごく、綺麗ですね」
俺は、何の衒いもなく、見たままの感想を口にした。
あまりに直球で、かつ照れのない俺の言葉に、先輩の方が逆に毒気を抜かれたように目を見開いた。
「……えっ? あ、ありがとう。……お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃないですよ。さっきから周りの男の人たち、みんなめちゃくちゃ先輩のこと見てますし。華やかで、本当に先輩に似合ってます」
俺が周囲の視線を引き合いに出して淡々と褒め続けると、先輩は「もう、そういうことを平気な顔で言うのね……」と、真っ赤になった顔を隠すようにショールの毛並みに顎を埋めた。
拝殿へと続く石段は、押し寄せる参拝客で埋め尽くされていた。
振袖の袖を汚さないようにと気を配る先輩を、周囲の波が容赦なく押し流そうとする。
「……っ」
よろめいた先輩の腰を、俺は咄嗟に腕で支えた。
分厚い帯越しでも、彼女の体温が伝わってくる。先輩は小さく短い悲鳴を上げ、俺の胸元に顔を埋める形になった。
「危ないですよ。……先輩、またはぐれそうです。袖、持ってますか?」
「……袖だと、離しちゃいそうだから。……その、腕を、借りてもいい?」
「……分かりました。それなら安心ですね」
俺が腕を差し出すと、先輩は俺の二の腕に、自分の腕をそっと絡ませた。
密着した距離。
彼女の振袖から漂う、凛とした花の香りが鼻腔をくすぐる。
腕に伝わってくるのは、慣れない着物のせいか、それとも寒さのせいか。彼女の身体の、微かな、けれど確かな震えだった。
その振動が自分の腕を通じて心臓にまで伝播し、なぜか俺の心拍数まで少しだけ狂わせていくような気がした。
ようやく辿り着いた拝殿の前。賽銭箱に硬貨が吸い込まれる鈍い音が響く。
俺は深く頭を下げ、目を閉じ、心の中で強く願った。
(……今年こそ、全国大会に出場できますように。そして、久しぶりに松岡先生に会って、強くなった俺を報告させてください)
それが今の俺のすべてだった。先生がいないプールで、必死で練習に励んできた。
その成果を証明できる場所は、全国の舞台しかない。
願い終えて隣を見ると、先輩はまだ、長く、深く、目を閉じて祈っていた。その指先は白くなるほど強く合わされ、どこか祈るというよりは「縋っている」ようにも見えた。
「……何を願ったんですか? 先輩のことだから、やっぱり全国大会の切符ですか」
境内の隅に移動したところで俺が尋ねると、先輩は少し寂しげに、けれど優しく微笑んだ。
「……ええ。私も、全国大会出場。……でもね、ただ出場するだけじゃなくて、君と一緒に、二人で行きたいって願ったの。……あと、できれば、その……」
先輩は最後の方を濁すと、俺から視線を逸らした。
水泳は基本的に個人種目だ。でも、同じチームメイトとして、あの熱気の中に二人でいたいという、それは競技者としての目標を超えた、彼女個人の切実な願いのように聞こえた。
「俺と一緒に、ですか。そうですね、二人で標準記録を切って、あの舞台に立ちましょう。先輩が近くにいてくれたら、俺も心強いです」
「……君は、本当に。……そういう、真面目なところは好きなんだけどな」
先輩は小さな溜息をつき、結んだばかりの「大吉」のおみくじをぎゅっと握りしめた。
松岡先生。
俺が神様に願った「全国」の先に、先生は立っているんでしょうか。そしてその時、俺の隣には、誰がいるべきなのでしょうか。
初詣からの帰り道、彼女が俺の腕を離した瞬間の、あの急激に冷え込んだような感覚だけが、なぜか胸の奥に残っていた。




