第30話 月と聖夜の残り香
クリスマス当日の夜、駅前のファミレスは、家族連れやカップルの熱気で溢れかえっていた。
水泳部の「一年お疲れさま会」。
ドリンクバーの甘い匂いと、部員たちの騒がしい笑い声が混ざり合う中、俺は自分の腕時計をそっと確認した。
(……九時か。そろそろ切り上げないと、明日の自主練習に響く。冬の間にどれだけフォームを固められるかが勝負だ)
「……高橋くん、さっきから時計ばかり見てるのね」
隣に座る佐伯先輩が、少し寂しそうに声をかけてきた。
今日の先輩は、プールの時に見せる鋭利な美しさとは、全く別の空気を纏っていた。
柔らかなオフホワイトのニットに、いつもはきつく結い上げられている黒髪が、今日は緩やかに肩に流れている。
まるで、夜のプールを優しく照らすおぼろ月そのものだった。
「あ、すみません。少し、気が急いてしまって。……先輩、今日は雰囲気が違いますね。その格好、なんだか……いつもより、その、大人っぽいです」
俺が素直な感想を口にすると、先輩の頬が微かに朱に染まった。
「……そう? クリスマスだもの。少しは、その……特別だと思いたくて」
先輩は、窓の外で輝く並木道のイルミネーションをじっと見つめた後、意を決したように俺の目を見た。
「ねえ、高橋くん。あそこのイルミネーション、私、どうしても近くで見たいの。……一緒に来てくれない?」
いつもの命令口調ではない、震えるような真っ直ぐな誘い。
「先輩がそう言われるなら……。いいですよ」
光のトンネルへと足を踏み入れると、そこは想像を絶する人混みだった。幸せそうな喧騒が渦巻き、視界を遮るほどの人波に飲まれる。
「うわっ……」
横から来た集団に押され、先輩の身体が俺の方へと大きくよろめいた。咄嗟に支えようとした俺の肩と、先輩の細い肩が強くぶつかる。
「す、すみません、先輩。大丈夫ですか?」
「……ええ。でも、すごい人ね」
先輩の声は、今にも消えそうに細かった。
人混みを避けるたびに、何度も腕や身体が密着する。その拍子に、俺の指先が、先輩の凍えた指先に不意に触れた。
「……っ!」
先輩の身体がびくんと跳ねる。
彼女は真っ赤な顔をして立ち止まり、俺のコートの袖を、消えそうな力でぎゅっと握りしめた。
「高橋くん……あの、はぐれちゃいそうだから。……服の袖、持っててもいい……?」
俯いた彼女の耳まで火がついたように赤くなっている。
「……そうですね。ここではぐれたら、合流するの大変ですしね」
俺が腕を少し差し出すと、先輩は俺の袖口を、壊れ物を扱うような手つきで握りしめた。
人波をかき分ける間、俺のすぐ後ろから彼女の吐息が伝わってくる。
心臓の鼓動が耳元まで響いてくるが、それが寒さのせいなのか、この距離のせいなのか、俺には判別がつかなかった。
「……ねえ、高橋くん」
光り輝く並木道の出口が見えてきた頃、先輩がぽつりと呟いた。
「年が明けたら……その、三が日のどこかで。一緒に初詣、行かない?」
それは、水泳部としての行事ではなく、彼女個人からの明確な「次の約束」だった。
「初詣、ですか。……いいですよ。俺も、今年のタイムが良くなるように神頼みでもしようと思ってたところです。予定、確認しておきますね」
俺がまっすぐに答えると、先輩はどこか切なそうに、けれど少しだけ嬉しそうに微笑み、俺の袖をさらに強く握りしめた。
松岡先生。
最近、なんだかいつもと違う熱が身体から引いてくれません。俺には、この熱の正体が分からないままです。
袖から伝わる微かな震えと、彼女がくれた次の約束。冷たい夜風の中でも、その温かさだけが、ずっと消えずに残っていた。




