第29話 月と灼けるような沈黙
体育祭での「事件」は、瞬く間に校内に広まっていた。
水泳部の無名な一年生が、陸上部をあと一歩まで追い詰めたという噂は、尾ひれがついて他学年にまで届いている。
放課後、部室へ向かう廊下で、俺は二年生の教室から漏れ聞こえる声に足を止めた。
「ねえ佐伯さん、あの一年生のリレーの子、紹介してくれない?」
「おねがい、水泳部でしょ? 彼女いるのかな」
数人の女子生徒が、先輩を囲んで盛り上がっている。
隙間から見えた佐伯先輩は、いつもの月のように凛とした表情を崩していなかったが、その瞳には冷ややかな拒絶の色が混じっていた。
「……あの子は、そんなことに興味ないわ。ただ、速くなることしか考えていないの」
突き放すような物言い。
それは後輩を保護しているようでもあり、自分だけの領域に誰も踏み込ませたくないという、剥き出しの嫉妬のようにも聞こえた。
先輩が教室を出てきたところで、俺は声をかけた。
「お疲れさまです、先輩。……さっきの、なんかすいません」
「……聞いていたの? 別に、なんでもないわ」
先輩は少し早歩きでプールへと向かう。
俺はその背中を追いながら、ふと思い出したことを口にした。
「そういえば、体育祭のあともクラスの女子に告白されて、断ったんです。そうしたら……」
先輩が、ぴたりと足を止めた。
「……何て言われたの?」
「『佐伯先輩と付き合ってるから断るの?』って聞かれて。あまりに突飛な質問だったので、びっくりしましたよ。俺たちが付き合ってるなんて、どこをどう見たらそうなるんでしょうね」
俺は「困った噂ですよね」と笑い飛ばそうとした。
だが、隣に立つ先輩からの返事はない。
ふと見ると、先輩は耳の付け根まで真っ赤に染め、俯いたまま固まっていた。
いつもなら「馬鹿なこと言わないで」と一蹴するはずの彼女が、信じられないほど激しく動揺し、震える指先で自分の手首をぎゅっと握りしめている。
「……先輩? どうしたんですか、そんなに赤くなって。やっぱり、心外ですよね。変な噂のせいで、先輩のイメージまで悪くなって……」
俺は、彼女の動揺を「アスリートとしての尊厳を傷つけられたことへの憤り」だと解釈した。
「わかってます、先輩。俺みたいな一年生のせいで、先輩が『部内恋愛で浮ついている』なんて思われたら、部全体の士気に関わりますもんね。すみません、俺がリレーであんなに目立たなければ……」
「…………っ、そう、じゃないわよ」
先輩の声は、消え入りそうなほど微かだった。
顔を上げようとせず、必死に呼吸を整えている彼女の様子を見て、俺はさらに見当違いな納得を深める。
「……ああ、なるほど。火傷の件ですね。俺があんな風に無遠慮に手首を掴んだから、周囲に変な勘繰りをされたんだ。……反省してます。次からは、もっと距離感に気をつけますから。安心してください」
俺が真面目な顔でそう結論づけると、先輩はがくりと肩を落とし、深い、深い、絶望的なため息をついた。
「……高橋くん。君は、本当に……。……もういいわ。忘れて」
「え?忘れて?」
先輩はもう何も言わなかった。
ただ、赤みの引かない顔を隠すように背を向け、逃げるように更衣室へ駆け込んでいった。
「先輩、やっぱり怒らせちゃったかな。」
「忘れて」と言われたけど、胸のモヤモヤは消えなかった。
あの真っ赤になった耳や、絶望なため息をつく先輩が、どうしても頭から離れない。
(……いや、まさか、な)
一瞬だけよぎりかけた「答え」から逃げるように、俺は小さく首を振った。
松岡先生。
今から、家庭科準備室に行くので、相談のってくれませんか?
届くはずのない言葉を心の中で呟きながら、俺は暗くなり始めたプールへと歩き出した。




