第28話 月と碧い疾風
九月下旬、校庭は抜けるような青空と、舞い上がる土埃の匂いに包まれていた。
この学校の体育祭では各部の意地がぶつかり合う「部活動対抗リレー」がある。水泳部にとって、この時間は一種の公開処刑に近い。
陸上部やサッカー部が脚光を浴びる中、俺たちは水の中での強さを証明する術を持たなかった。
「……高橋、頼む。せめて形だけでも……!」
アンカーの俺にバトンが回ってきた時、水泳部はぶっちぎりの最下位だった。
トップの陸上部とは、もはや絶望的な距離が開いている。
バトンを受け取った瞬間、俺の意識が切り替わる。
水の中と同じだ。抵抗を最小限に、全身の筋肉を連動させ、爆発的な推進力を一直線に地面へ叩きつける。競泳で鍛え抜かれた広背筋と体幹の安定感が、砂を蹴る力を一滴も逃さない。
ごぼう抜きだった。
野球部、バスケ部、テニス部。前を走る「陸」の猛者たちを、有無を言わせぬ加速で次々とぶち抜いていく。
観客席からは「なんだあの速さは!?」「水泳部の高橋だ!」と驚き混じりの怒号が響く。
最後、独走していた陸上部の背中を射程圏内に捉える。だが、ゴールの白線は非情にもその僅か手前で現れた。
結果は二位。
最下位からの大逆転劇に会場中が騒然とする中、俺だけが膝をつき、届かなかった背中を見つめていた。
結局、あの県大会と同じだ。あと一掻き、あと一歩が届かない。
(……こんな無様な姿、先生には見せられないな)
土を握りしめる手のひらに、じわじわと悔しさが滲む。
中学時代、優しい言葉で心をすくい上げてくれた松岡先生の笑顔が脳裏をよぎった。けれど、もう俺の隣に先生はいない。
甘えを振り払うように頭を振ると、俺はゆっくりと立ち上がった。
閉会式後、片付けのために校舎裏へ向かうと、同じクラスの女子に呼び止められた。彼女は顔を真っ赤にして、震える声で言葉を絞り出した。
「高橋くん……リレー、凄かった。……あの、私、高橋くんのことが好きです。付き合ってほしいな、って……」
「ごめん」
俺の返答は、一秒の猶予もなかった。
理由を添えることもしない。ただ、今の自分に「それ」を受け入れる余白がないことだけが、沈黙となって横たわる。
彼女はショックを受けたような顔をしたが、すぐに何かを思い出したように、縋るような目で俺を見た。
「……やっぱり、佐伯先輩と付き合ってるから、なの?」
その問いに、俺は眉をひそめた。
「……どうして、そこで先輩の名前が出るんですか」
「だって、二人、いつも一緒にいるし……。さっきのリレーの時だって、先輩は高橋くんのことずっと見てたから。……きっと、私と同じ気持ちかなぁって……」
彼女はそう言い残すと、泣きそうな顔……で走り去っていった。
一人残された俺は夕闇が迫る校舎を見上げた。
佐伯先輩と付き合っている?
馬鹿げた憶測だ。俺たちはただ、同じ目標に向かってタイムを削り合っているだけだ。それ以外の感情が混ざる余地なんて、今の俺たちにはないはずだ。
けれど、さっきの女子生徒が言った「私と同じ気持ち」という言葉が、トゲのように胸に刺さって抜けない。
俺は首を振り、暗くなり始めたプールへと歩き出した。プールの水面は、夕闇の中でどこまでも深く、黒く沈んでいた。




