第26話 月と鉄板と不器用な距離
九月の文化祭、校舎内は、模擬店から漂うソースの香ばしい匂いで満ちていた。
水泳部の屋台から部員たちが遊びに消え、残されたのは山積みのキャベツと、不機嫌そうに立ち込める白い煙だけだった。
「……誰もやらないなら、私がやるわ」
ため息まじりにそう言って、佐伯先輩が鉄板の前に立った。
ドット柄のエプロンを纏ったその姿を、俺は少し離れた場所から眺めていた。
(……きれいだ)
率直にそう思った。
乱れた髪を耳にかけ、真剣な眼差しでコテを動かす彼女は、可愛らしいエプロンを付けていても、どこか凛とした「美しさ」が勝っていた。
文化祭の騒がしい熱気の中にいるはずなのに、彼女の周りだけが、まるで夜のプールに差し込む月光のように静かで、冷たいほどに澄んでいる。
隙のない、一枚の完成された絵画のようなその佇まいに、俺はただ目を奪われていた。
ふと、一年前の記憶が重なった。
中学の調理室での松岡先生。
少しサイズの合わないエプロンで、試行錯誤しながらハンバーグを作っていた姿。
彼女がそこにいるだけで、張り詰めた空気がふわりと軽くなるような、日だまりの温かさ。先生の優しさは、俺にとっての「休息」そのものだった。
だが、今の目の前にいるのは、休息とは無縁の、戦う女性の姿だ。
「あつっ……!」
油の跳ねる音と同時に、先輩が小さく声を漏らした。
見れば、彼女の白い手首に、跳ねた油が小さな赤い点を作っている。
「……大丈夫。これくらい、大したこと……」
強がってコテを握り直そうとする彼女の手を、俺は迷わず掴んだ。
恋愛感情でも、配慮でもない。ただ、「怪我をしたら後に残る」という、アスリートとしての勘が俺を動かしていた。
――そう、自分に言い聞かせながら。
「動かさないで。……今、冷やします」
俺は彼女の手首を掴んだまま、すぐ裏にある水道の蛇口まで引っ張っていった。
蛇口をひねると、勢いよく飛び出した水がステンレスのシンクに激しく跳ね返る。俺は先輩の手首を固定したまま、その赤い点めがけて冷水をあてた。
「……っ」
隣で、先輩が小さく息を呑む。
あふれる水の冷たさの中で、俺の手の中に収まっている彼女の皮膚の熱が、じんわりと手のひらに伝わってきた。
いつもプールで見ている凛とした姿からは想像できないほど、手首は細くて、柔らかい。
水しぶきが俺たちの制服の袖を濡らしていくのも忘れて、俺はただ、その熱が引いていくことだけに集中しようとした。
けれど、俺の指先を通して伝わってくる先輩の拍動は、あきらかに速くて。
それが自分の鼓動なのか、先輩のものなのか、もう分からなくなっていた。
「……もう、大丈夫。十分冷やしたから」
しばらくして、彼女の声が微かに震えながら響いた。
俺がそっと指の力を抜くと、彼女は弾かれたように自分の手首を隠し、きゅっと胸元に抱え込んで赤くなった顔を伏せた。
「……今日はもう、鉄板には触らないでください。俺がやります」
「……分かった。……ありがとう、高橋くん」
背後で、先輩が熱っぽい視線を俺の背中に投げていることにも、気づかない振りをしながら。
俺は、先生の優しさを思い出すと胸が締め付けられるのに、目の前で赤くなっている先輩の姿から、どうしても目を逸らすことができなかった。




