第25話 月と水際の休息
八月半ば、練習後のプールサイドは、逃げ場のない陽光に焼かれていた。
インターハイ予選の敗北から一ヶ月。
俺たちはあの夜の約束通り、ひたすら水を掻き続けてきたが、張り詰めた糸は少しずつ、自覚のない疲労を溜め込んでいた。
部室の前でスポーツドリンクを喉に流し込んでいると、着替えを終えた佐伯先輩がやってきた。
「高橋くん、お疲れさま。……ちょっといいかな」
「メニューの相談ですか? 明日のインターバルなら……」
「あ、そうじゃなくて」
先輩は少し困ったように笑って、俺の隣に腰を下ろした。
「九月の文化祭、うちの部も屋台出すでしょ。例年通り『焼きそば』になりそうなんだけど……。ほら、うちは古豪って言われてるし、少しは活気があるところを見せないと、来年の新入部員も入ってくれないかなって」
先輩は、新部長として、もっともらしい理由を並べ始めた。
「今週末、駅前で大きな夏祭りがあるじゃない。最近の屋台って、味だけじゃなくて見せ方も凝ってるから、参考にちょっと見に行ってみない? 一人で行くのも味気ないし、君の率直な意見を聞きたいの」
「屋台の視察……。確かに、やるからには人を集めないと部は存続しませんもんね」
俺は「部の存続」という大義名分に納得し、頷いた。
「よかった。……じゃあ、土曜日の夕方に駅前で」
当日、駅前に現れた先輩を見て、俺は一瞬、誰だか分からなかった。
いつも結んでいる髪を下ろし、白地に淡い水色の花が描かれた浴衣を着ていたからだ。
「……あ、ごめん。せっかくだから形から入ろうと思って。ジャージで視察してたら、周りから浮いちゃうでしょ?」
少しだけ頬を赤くして笑う彼女は、いつもの「厳しい先輩」の影もなく、雲にかかった月のように、どこか儚くて女の子らしい危うさがあった。
俺は「目立たないため……のですね」と自分に言い聞かせ、慣れない浴衣で歩きにくい様子の先輩の隣を歩き出した。
会場は提灯の琥珀色の光に包まれ、わたあめの甘い香りや焼とうもろこしの香ばしい匂いが充満していた。
「高橋くん、あそこの屋台、並べ方が上手じゃない? あれなら、文化祭の狭いスペースでも目立ちそう」
「そうですね。でも、回転率を上げないと行列で苦情が出るかもしれません」
俺たちは人混みの中、あくまで「リサーチ」という姿勢を崩さずに歩いた。
けれど、ふとした拍子に先輩の肩が触れるたび、彼女から漂う石鹸のような香りに、俺の意識は少しずつ下見という目的から遠ざけられていく。
(……こういう場所、先生とは来なかったな)
中学の時、松岡先生とのやりとりは、ほとんどが学校だった。中学校という狭い世界の、なんてことないやり取りの連続。
けれど、今の隣にいる先輩と、学校から離れた賑やかな世界にいる。祭りの灯りに照らされながら、ふと見上げた夜空に、白く澄んだ月が浮かんでいた。
高校生になるまで、プールの外にこんな世界があるなんて思いもしなかった。
「……高橋くん? 考え事?少しは楽しみなよ。……はい、これ」
先輩が差し出してきたのは、冷えたあんず飴だった。
受け取ると、指先がほんの少しだけ触れる。 彼女はすぐに手を引いたが、その耳たぶが、提灯の光以上に赤くなっていることに俺は気づかなかった。
「……美味しいです。糖分は、疲労回復にいいですし」
俺がそう言うと、先輩はどこか寂しそうに、でも愛おしそうに俺を見て笑った。
「君は、本当に……。……でも、そういうところがいいのかな」
俺は飴の甘さを舌の上で転がしながら、隣を歩く先輩の、静かな歩調に合わせる。アスファルトを踏みしめる自分の足取りが、普段より、少しだけ軽くなっていることに気づいた。
松岡先生。
俺、今でも中学三年生の夏休みに戻りたいと思っています。毎日、先生と顔を合わすことができたあの夏に。でも、今、不思議とその気持ちがおさまっています。
打ち上げ花火が遠くで鳴り、二人の長い影をアスファルトに落とした。




