第24話 月と夏空の落とし物
俺は地区大会の後、県大会、関東大会までに駒を進めた。インターハイに出るには、この大会で標準記録を突破するしかない。
関東大会の決勝。その大会の電光掲示板の数字が、網膜に焼き付いて離れない。
あと、コンマ〇五秒。
そのわずかな空白に、俺のインターハイへの夢は吸い込まれて消えた。
帰りの電車の中、俺と佐伯先輩は向かい合わせの席に座っていた。
車内には、部活帰りの中学生や買い物袋を提げた家族連れがいて、賑やかな話し声が響いている。けれど、俺たちの周りだけは、まるで真空地帯のように音がなかった。
二人とも、インターハイ出場まであと一歩届かなかった。
先輩は窓の外をじっと見つめている。
いつもなら「しっかり」と俺を励ましてくれる彼女も、今日ばかりは唇を噛み締め、膝の上で拳を握りしめていた。
俺も、かける言葉が見つからない。
中学の時、全中予選で負けたあの日、松岡先生は「今までで一番、かっこいい泳ぎだったよ」と、微笑んでくれた。
あの時の、お節介の温かさが、今は痛いほど恋しかった。
「……高橋くん」
駅に到着する直前、先輩が掠れた声で言った。
「……ごめん。私、先輩なのに。……君を、引っ張っていけなかった」
「……謝らないでください。俺の実力不足です」
それ以上、言葉は続かなかった。
電車が止まり、ホームに降り立つ。
改札を抜けた瞬間、夜の空気を震わせるような、重低音が響いた。
――ドンッ、という腹に響く音。
「え……?」
顔を上げると、駅前の高層ビルの合間に、巨大な光の輪が咲いていた。
赤、青、金。
色とりどりの火花が夜空を焦がし、ゆっくりと枝垂れて落ちていく。
そういえば、今日は地元の花火大会だった。
浴衣姿のカップルや、はしゃぐ子供たちが、駅前広場に溢れている。
俺たちは、塩素の匂いが染み付いた重いエナメルバッグを肩にかけ、大会帰りのボロボロの格好で、その華やかな喧騒の中に立ち尽くしていた。
「日常」を楽しんでいる人々と、全てを懸けて負けてきた俺たち。その残酷なほどの対比に、喉の奥が熱くなる。
「……綺麗だね」
佐伯先輩が、花火を見上げたまま呟いた。その瞳には、夜空の火花が反射して、一瞬だけ潤んで見えた。
もし今、ここに松岡先生がいたら。
きっと、「悔しいね、悔しいね高橋くん」って、俺以上にボロ泣きしてくれただろう。
水泳のことは詳しくなくても、俺の努力を一番近くで見ていてくれた先生なら、その温もりだけで俺の心を半分、救ってくれたはずだ。
けれど、隣にいる先輩は、花火を見つめながら静かに涙をこぼしていた。
彼女は、この悔しさを優しさで薄めてなんてくれない。今の自分たちの惨めさは、これからの練習の糧として役に立つことを、彼女もまたわかっているからだ。
「……先輩。来年は、絶対に」
俺の声に、彼女はゆっくりと首を振って、俺の目を見た。
「……来年じゃない。明日の朝練からだよ、高橋くん」
涙を拭い、無理にでも「しっかり」とした顔を作ろうとする彼女。
俺は、スマホをポケットの中から取り出そうとして、グッと堪えた。
今の俺は、隣で同じ痛みを感じているこの人と、最後まで噛み締めていなければならない気がした。
この悔しさを、この火花の虚しさを。
俺たちは、花火の音を背に、それぞれの暗い帰り道へと歩き出した。




