第23話 月と号砲と戦場
六月。県大会予選。
会場の屋内プールは、独特の湿気と塩素の匂い、そして各校の応援団が放つ熱気に包まれていた。
うちの部からも数人がエントリーしていたが、予選が終わる頃には、ほとんどの部員が「お疲れー」と緊張感のない声を出して、スマホをいじったり売店へ向かったりしていた。
そんな中、俺と佐伯先輩の周りだけは凪のように静かだった。
「高橋くん。……準備はいい?」
招集所に向かう直前、先輩がスポーツドリンクを差し出してきた。彼女はすでに自分の種目で圧倒的な優勝を決めていた。
「はい。やることは決まってますから」
俺はショップで選んだあのゴーグルをきつく締め直し、ボトルを受け取った。
中学三年の時の、地区大会で優勝した時の松岡先生の顔が、一瞬、脳裏をよぎった。
号砲。
クッションのゴムを削ぎ落とした、硬質な視界が水面を捉える。飛び込んだ瞬間、世界から音が消えた。
無機質な水の感触と、自分の心音だけ。隣のレーンの気配さえ置き去りにするつもりで、俺は腕を回した。
結果は、圧倒的な優勝だった。電光掲示板の「1」の数字を確認し、プールから上がる。
他の部員たちが「おめでとー」と拍手を送ってくる中、佐伯先輩だけは、出口のすぐそばで俺のタイムを凝視していた。
着替えを終え、誰もいないエントランスの隅で、俺は一人自転車の鍵を取り出した。
「高橋くん」
背後から声をかけられ振り返ると、そこには荷物をまとめた佐伯先輩が立っていた。
いつも冷静な彼女だが、その瞳には、レースの興奮とは違う微かな熱が宿っている。
「……お疲れさま。二人とも優勝だね」
「お疲れさまです。……でも、タイムはまだ納得いってません。後半のキックが、まだ甘いです。県大会までに修正します」
俺が淡々と反省を口にすると、先輩は黙って俺の横顔を見つめた。
他の連中が予選落ちでもへらへらしている中で、優勝という結果を出してもなお、一切浮かれず「速さ」だけを見つめる少年のストイックさ。
その残酷なほどに純粋な眼差しに、彼女は、自分がもう後戻りできないほど心を奪われたことを悟った。
「……そうだね。君らしい。……ねえ、もし良かったら、このあと少し時間あるかな」
彼女は視線を泳がせ、耳にかかった髪を整えながら続けた。
「……今日の君のレース、予選も決勝も動画で撮っておいたの。どこかで一緒にチェックしない? お互いにアドバイスし合えれば、課題がもっとはっきりすると思うから」
誘い方は、どこまでも「しっかりした先輩」のまま。けれど、夜空の月を思わせる綺麗な横顔は少しだけこわばり、その声は微かに震えていた。
「録画……。そうですね、ぜひお願いします。客観的に自分のフォームを見たかったです」
俺は、彼女の微かな緊張に気づくこともなく、ただ「強くなるための材料」を求めて頷いた。
歩き出しながら、スマホの画面を点ける。
一番に伝えたい相手がいるのに、俺のスマホには、この結果を報告する宛先すら入っていない。
松岡先生がこの結果を知ったら、「すごーい! 努力の成果だね!」って、自分のことみたいに泣いて喜んでくれただろう。
タイムだけじゃなく、そこまでの俺の足跡を、いつも一番近くで見ていてくれた先生。
でも、今の俺の隣を歩いているのは、先輩の静かな歩調だけだ。
俺はそっと電源ボタンを押し、光の消えたスマホをポケットの奥へと沈めた。
俺は、先輩の隣を歩き出した。
松岡先生。俺は少しだけ、新しい場所に馴染めた気がします。




