第21話 月と飾りのない紅茶
四月。
俺が袖を通したのは、かつて松岡先生が通っていたのと同じ、伝統ある紺色の制服だった。
中学最後、全中予選で敗退したあの日の悔しさは、今も胸の奥で燻っている。
だからこそ、高校では何が何でもインターハイ決勝に行くと決めていた。
期待を胸に向かったプールだったが、そこには「古豪」の熱気はなかった。
部室の裏で数人の男子がスマホを眺め、女子部員たちはプールサイドで喋っている。
(……ここで、本当に速くなれるのか?)
俺が落胆混じりにプールに入って、アップをしようとすると、不意に、水面を切り裂くような鋭い音が響いた。
バタフライ、一掻きで驚くほど進む推進力。無駄のないしなやかなフォーム。壁を蹴り、水から顔を出したのは、二年生の佐伯先輩だった。
「……新入生? 入部希望?」
声は低く、落ち着いている。松岡先生のあの賑やかな話し方とは対極にある、静かな声。
「……はい。高橋です」
「そう。……まだ水冷たいから、身体冷やさないようにね」
初日の練習は、淡々と進んだ。いや、進んだと言えるのか。ダラダラと水に浸かっているだけの部員たちの中で、佐伯先輩だけが黙々とメニューを消化していた。
彼女が泳ぐたびに、暗いプールに静謐な波紋が広がっていく。
練習を終え、冷えた身体を拭いてプールサイドのベンチで一息ついていると、先に着替えを終えたらしい佐伯先輩が歩み寄ってきた。
「はい、これ」
彼女は自分の魔法瓶から、湯気の立つ紅茶を蓋の紙コップに注いで差し出してきた。
薄暗いプールに差し込む月光のような、ひっそりと、けれど確かな存在感。深入りせず、必要な気遣いだけを置いていく。
松岡先生がたまに持ってきた、あの甘いスポーツドリンクとは違う、砂糖もミルクも入っていない、凛とした紅茶の香り。
「……ありがとうございます」
温かいコップを受け取ると、冷え切った指先から少しずつ体温が戻ってくる気がした。
部活後。
練習を終えて静まり返ったプールサイドに立つと、ふとした瞬間に記憶が蘇る。
中学の時、練習が終わった後、いつも松岡先生に話しかけにいっていた自分を。どんなに冷たいプールで、どんなにつらい練習だろうが、練習後に太陽に触れることができていた。
当たり前だと思っていた、あの温かくて、居心地のよい時間が、今はもうどこにもない。
今の俺の周りには、夜空に浮かぶ孤独な月を映し出した、静かな水面しかなかった。
ポケットからスマホを取り出し、画面を点ける。フォルダの先頭にあるのは、あの卒業式の日、中庭で撮った一枚の写真だ。
少し照れくさそうに固まっている俺の隣で、松岡先生が、太陽のように最高の笑顔でピースサインを作っている。
俺のスマホの中だけにある世界で一枚だけの宝物。
画面から溢れ出すようなその明るさを見つめていると、少しだけ強張っていた肩の力が抜けた。
松岡先生。
今の俺の周りは、しんとしていて、まるでずっと夜が続いているみたいです。ここには、まるで真夜中で……早く、太陽が見たいです。
眩しさに目を細めてしまうような、あの騒がしくて、どうしようもなく熱い夏に、俺はまだ囚われたままです。
スマホをポケットにしまい、俺は暗い自転車置場へと向かった。
いつか、先生に、最高の結果を報告しに行くために。




