表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/6

第二章:太陽と波音の揺らぎ

 四月も半ばを過ぎると、夕方のプールサイドには西日が長く差し込むようになる。


 水面に反射したオレンジ色の光が、白い壁をゆらゆらと照らしていた。


「……高橋、今日のメニューきつくないか?」


 副部長の佐藤が、肩で息をしながらゴーグルを外した。全国大会を目指す俺が組んだメニューは、控えめに言っても過酷だ。部員たちの間には、言葉を交わす余裕すらなくなっていた。


「四本目、最後は出し切れ」

 俺は冷たく言い放ち、タイムを計るために一度プールサイドへ上がった。


 メイン顧問の鬼頭先生は、今日は会議とかでまだ来ていない。必然的に、現場には副顧問の松岡先生と俺たちだけだ。


 あの人は、ちゃんとタイムを計っているんだろうか。


 そう思って視線を巡らせた俺は、言葉を失った。


 プールサイドの隅にある古びたベンチ。


 そこに、彼女が座っていた。いや、座っているというよりは、今にも崩れ落ちそうになりながら背もたれに身体を預けている。


 手元のストップウォッチは、彼女の膝の上で完全に沈黙していた。


「……嘘だろ」


 俺は歩み寄った。


 全国を目指して必死に水を掻いている横で、顧問が居眠りなんて。呆れるのを通り越して、少しばかりの怒りが湧いてくる。


「先生」


 声をかけようとして、俺の足が止まった。


 西日に照らされた彼女の顔は、驚くほど無防備だった。


 新任の教師として、この数週間、彼女なりに必死だったんだろう。慣れない授業に、山のような事務作業、そして専門外の部活動。


 細い肩が、穏やかな呼吸に合わせてゆっくりと上下している。まるで、プールの波音と合わせるかのように。


 いつも結んでいる髪が少しだけ解け、頬にかかっていた。


 学校の先生というのは、もっとこう、隙がなくて、威厳があって、俺たちを「指導」する存在だと思っていた。でも、目の前にいるのは、俺とそう年齢も変わらないんじゃないかと思えるほど、一人の頼りない大人だった。


 俺が知っているどの大人とも違う。


 俺が目指している勝負の世界の鋭さとは、対極にあるような、柔らかな空気。


「……なんだよ、それ」


 喉まで出かかった文句は、なぜか言葉にならなかった。


 俺はただ、彼女を起こさないように、静かにその場を離れた。


「高橋? どうしたんだよ。メニュー、次は?」


 佐藤が不思議そうにこちらを見ている。


「……五分休憩。各自、次の準備しとけよ」


 自分の声が、少しだけ上ずった気がした。


 心拍数はまだ高いままだ。


 それは、全力で泳いだせいなのか。それとも、あの無防備な寝顔を独り占めしてしまったせいなのか。


 自分でもよくわからないまま、俺は再び、ぬるくなった水の中へと潜り込んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ