第二章:太陽と波音の揺らぎ
四月も半ばを過ぎると、夕方のプールサイドには西日が長く差し込むようになる。
水面に反射したオレンジ色の光が、白い壁をゆらゆらと照らしていた。
「……高橋、今日のメニューきつくないか?」
副部長の佐藤が、肩で息をしながらゴーグルを外した。全国大会を目指す俺が組んだメニューは、控えめに言っても過酷だ。部員たちの間には、言葉を交わす余裕すらなくなっていた。
「四本目、最後は出し切れ」
俺は冷たく言い放ち、タイムを計るために一度プールサイドへ上がった。
メイン顧問の鬼頭先生は、今日は会議とかでまだ来ていない。必然的に、現場には副顧問の松岡先生と俺たちだけだ。
あの人は、ちゃんとタイムを計っているんだろうか。
そう思って視線を巡らせた俺は、言葉を失った。
プールサイドの隅にある古びたベンチ。
そこに、彼女が座っていた。いや、座っているというよりは、今にも崩れ落ちそうになりながら背もたれに身体を預けている。
手元のストップウォッチは、彼女の膝の上で完全に沈黙していた。
「……嘘だろ」
俺は歩み寄った。
全国を目指して必死に水を掻いている横で、顧問が居眠りなんて。呆れるのを通り越して、少しばかりの怒りが湧いてくる。
「先生」
声をかけようとして、俺の足が止まった。
西日に照らされた彼女の顔は、驚くほど無防備だった。
新任の教師として、この数週間、彼女なりに必死だったんだろう。慣れない授業に、山のような事務作業、そして専門外の部活動。
細い肩が、穏やかな呼吸に合わせてゆっくりと上下している。まるで、プールの波音と合わせるかのように。
いつも結んでいる髪が少しだけ解け、頬にかかっていた。
学校の先生というのは、もっとこう、隙がなくて、威厳があって、俺たちを「指導」する存在だと思っていた。でも、目の前にいるのは、俺とそう年齢も変わらないんじゃないかと思えるほど、一人の頼りない大人だった。
俺が知っているどの大人とも違う。
俺が目指している勝負の世界の鋭さとは、対極にあるような、柔らかな空気。
「……なんだよ、それ」
喉まで出かかった文句は、なぜか言葉にならなかった。
俺はただ、彼女を起こさないように、静かにその場を離れた。
「高橋? どうしたんだよ。メニュー、次は?」
佐藤が不思議そうにこちらを見ている。
「……五分休憩。各自、次の準備しとけよ」
自分の声が、少しだけ上ずった気がした。
心拍数はまだ高いままだ。
それは、全力で泳いだせいなのか。それとも、あの無防備な寝顔を独り占めしてしまったせいなのか。
自分でもよくわからないまま、俺は再び、ぬるくなった水の中へと潜り込んだ。




