第一章:太陽と塩素の匂い
プールの水面が、四月の眩しい光を反射してキラキラと揺れている。
入学式を終えたばかりの校庭には桜が舞っているが、ここだけは別世界だ。湿った空気と、鼻を突く塩素の匂い。
「アップから心拍数上げていけよ! 大会まで時間もう三ヶ月しかないぞ!」
俺の声が、プール全体に反響する。
中学三年の春。俺―― 高橋 海 には、感傷に浸っている暇なんてなかった。目指すは夏の全国大会(全中)出場。一分一秒を削るために、冬の間もひたすら水を掻き続けてきた。
「高橋、ちょっと飛ばしすぎじゃないか? まだ春先なんだし」
そう言って苦笑いしながらゴーグルを直したのは、副部長の佐藤だった。
「初日だからこそだ。……で、例の『新しい顧問』は?」
「ああ。去年からいる体育の鬼頭先生は続投だけど、もう一人が……あ、来たみたいだぞ」
入り口の重い扉が開く。
鬼頭先生の後ろから、おずおずとついてくる人影があった。
「……え」
佐藤が呆気に取られたような声を漏らす。
現れたのは、およそ水泳部には似つかわしくない、ふわっとした雰囲気の女性だった。手には大きなバインダーを抱え、サイズの合っていない真新しいジャージに着られているような印象を受ける。
「ええと……今年から副顧問を務めることになりました、松岡です。家庭科の担当で、今年赴任したばかりです」
声が小さい。鬼頭先生の「気合入れろよ!」という怒鳴り声にかき消されそうなほどだ。
彼女は、並んだ俺たちの視線に怯えるように、頭を下げている。
「水泳は……その、授業で泳いだことがあるくらいで、全然詳しくないんですけど。皆さんのサポート、一生懸命頑張ります」
俺は思わず、舌打ちしそうになった。
こっちは人生かけて泳いでるんだ。家庭科の新任で、しかも泳げもしないような先生に、一体何ができるっていうんだ。
「松岡先生、こっちが部長の高橋だ。全国目指しているやつだから、しっかり見てやってくれ」
鬼頭先生に紹介され、彼女の視線が俺を捉えた。
少し困ったような、それでいて何かを眩しがるような、頼りない瞳。
「高橋くん……よろしくね」
彼女が近づくと、鼻につく塩素の匂いの中、ふわりと、春の陽だまりを集め薫りに変えたような、そんな甘く温かい空気が紛れ込んだ。
「……よろしくお願いします」
俺はわざとぶっきらぼうに答えて、すぐに水の中へと飛び込んだ。
冷たい水が、彼女に向けた苛立ちと、一瞬だけ速くなった鼓動を静めてくれることを期待して。
だが、水面から顔を上げたとき、プールサイドでノートを一生懸命広げている彼女の姿が、どうしても太陽のようにまぶし感じてしまった。




