第17話 太陽と白紙の未来
九月。二学期が始まった学校は、まだ夏の名残のような熱気に包まれていた。
放課後。
いつもなら真っ先に着替えてプールへ向かっていた時間、俺は教室の自分の席で、一人、白紙に近い進路希望調査票を前にしていた。
窓の外からは、一、二年生が練習するホイッスルの音と、聞き慣れた水の音が風に乗って聞こえてくる。
(……変な感じだな)
あの中にはもう、俺の居場所はない。
やりきった満足感はあるけれど、ぽっかりと空いた穴を埋めるのは、意外と時間がかかりそうだった。
トントン、と教室のドアが叩かれた。
「やっぱりここにいた。高橋くん、お疲れ様」
顔を上げると、廊下側に松岡先生が立っていた。手には、あの金魚の栞が挟まったファイル。でも今日は、彼女もどこかいつもと違って見えた。
「先生。部活、いいんですか?」
「お子さんも産まれて、部活に戻ってきた鬼頭先生がビシバシやってるから大丈夫。それより……はい、これ。大阪で撮った写真、現像したから」
彼女が差し出してきた封筒。
中には、真っ赤な顔でたこ焼きを頬張る彼女と、その横で少し呆れたように、でも笑っている俺の姿があった。
「……これ、俺が泳いでる写真じゃないんですね」
「あはは、そうだね。でも、こっちの方が私たちらしいかなって」
彼女は俺の隣の席に、ちょこんと腰を下ろした。机の上に置かれた、まだ「白紙」の進路希望調査票に彼女の視線が止まる。
「……進路、まだ悩んでる?」
「……。水泳を続けるならあそこだし、でも勉強もしなきゃいけないし。……なんか、急に世界が広がりすぎて、どこに行けばいいのか分かんなくなっちゃって」
俺が正直に漏らすと、彼女は「そうだよね」と優しく頷いた。
「いいんだよ、ゆっくり悩んでも。私もそうだったもん。……でもね、高橋くんがどの道を選んでも、私はその先で君が美味しいものを食べて笑ってる姿を想像できるよ。それが一番大事なんじゃないかな」
彼女は立ち上がり、ファイルを胸に抱いた。金魚の栞が、夕方の教室の光を受けて、誇らしげにキラリと光った。
「悩んで、悩んで、最後に見つけた答え、私にも教えてね」
大阪の夜、飲み込んだ言葉。今はまだ伝えない。
でも、彼女の期待に応えられる自分でありたいから、俺はこの白い紙と向き合える。
「……はい。もうちょっと、ジタバタしてみます」
「うん。……またね、高橋くん」
遠ざかっていく、少し頼りない、けれど愛おしい足音。
俺はもう一度、白い紙を見つめた。
どんな未来を選ぶにしても、あの人が贈ってくれた「お疲れ様」という笑顔に恥じない自分でありたい。
窓から吹き込む風は、少しだけ秋の匂いがした。
俺の夏は終わったけれど、新しい季節を泳ぎ出すための準備は、もう始まっている。




