第16話 太陽と言えない言葉
会場の喧騒を後にすると、大阪の街は容赦ない熱気で俺たちを迎えた。
アスファルトから立ち上る陽炎が、つい数十分前まで全身を包んでいた冷たいプールの感触を、強引に過去へと押し流していく。
「……あ、あった! ここ、ネットで評判良かったんだよ」
松岡先生がスマホの画面を掲げて、少しだけ誇らしげに笑う。たどり着いたのは、路地裏に佇む年季の入ったお好み焼き屋だった。
暖簾をくぐると、冷房の冷気よりも先に、濃厚なソースと焦げた醤油の香りが鼻腔をくすぐった。鉄板の焼ける威勢のいい音が、静まり返っていた俺の胃袋を不意に叩き起こす。
「高橋くん、本当に一番高いの頼んでいいからね。今日は特別なんだから」
ボックス席に向かい合わせに座ると、先生はメニューを広げてそう言った。その瞳は、教師としてではなく、どこか年の離れた姉のような優しさを湛えている。
俺は結局、店で一番豪華な「特製ミックス」を注文した。目の前の大きな鉄板で、具材が躍るように焼かれていく。
「……先生、さっきはありがとうございました」
コテで生地を切り分けながら、俺は視線を落としたまま言った。
「なにが?」
「一番かっこいい泳ぎだったって言ってくれたこと。……俺、本当は負けて情けないって思われるのが一番怖かったんです」
先生の手が止まる。湯気の向こう側で、彼女は少しだけ真面目な顔をして俺を見つめた。
「そんなわけないでしょ。勝つことだけがかっこいいなら、私はあんなに大きな声で応援したりしないよ」
彼女はふふっと笑って、熱々の一切れを口に運んだ。
「高橋くんが毎日、誰よりも早くプールに来てたこと。タイムが伸びなくて、一人で居残ってフォームを確認してたこと。……全部知ってる。その積み重ねがあの数分間に詰まってた。だから、最高にかっこよかったんだよ」
心臓の奥が、お好み焼きの熱さとは別の理由で熱くなる。
ソースがたっぷりかかった一切れを口に押し込む。濃厚な旨味と、少しだけ鼻に抜ける青のりの香りが、空っぽだった身体の隅々まで染み渡っていく。
「……うまいっすね」
「でしょ? 頑張った後のご飯は、世界で一番のご褒美なんだから」
店を出ると、空は深い藍色に染まっていた。
駅までの道のり、街灯の下を二人で並んで歩く。時折、隣を歩く先生の肩が、俺の腕に触れそうになる。水泳部としての絆が終わってしまった今、この距離感は何なんだろう。
カバンの中で、大切にしまい込んだ金魚の栞が揺れているのを感じた。
(……伝えたいな)
喉まで出かかった言葉を、俺は夜の冷たい空気と一緒に飲み込んだ。
今の俺はまだ、ただの教え子で、引退したばかりの選手だ。この人に見合うような、胸を張れる何かを見つけるまでは、この言葉は預けておこう。
「高橋くん? 急に黙ってどうしたの? お腹いっぱいすぎて眠くなった?」
「……違いますよ。また明日から、何しようかなって考えてただけです」
嘘ではない。でも、全部でもない。
俺たちは改札へと向かう。
大阪の夜風は、ほんの少しだけ、秋の予感を孕んで吹き抜けていった。




