第11話 太陽とふたりっきり
八月上旬。
終業式をとっくに終えて、蝉の時雨が降り注ぐ校庭からは、生徒たちの声がほとんど聞かれない。
もう本格的な夏休み。部活の練習の毎日。だが、他の三年生たちが全員引退した今、この屋外プールで泳いでいる三年生は、全国大会を控えた俺一人だけだ。
「……九、十。よし」
インターバルの合間に時計を確認する。
一、二年生の練習が終わった後の、静かな午後。
水面に反射する陽光が、ゴーグルの奥の目に刺さる。
「高橋くん、お疲れ様。……はい、冷えてるよ」
プールサイドのベンチに座っていた松岡先生が、ペットボトルを差し出した。引退した佐藤たちに代わって、最近は彼女がこうして一対一で練習に付き添ってくれている。
メイン顧問の鬼頭先生は、もうすぐ奥さんが出産を迎えるらしく、しばらく部活を休むとのことだった。だから最近は、ずっと二人きりだ。
「……ありがとうございます」
受け取ったボトルの冷たさが、熱を持った体に心地いい。彼女は、あの金魚の栞を挟んだファイルを膝に置き、少し眩しそうにプールを見つめていた。
「なんだか、変な感じだね。ついこの前まで、あんなにみんなで騒いでたのに」
「……そうですね。でも、俺はこっちの方が集中できます」
誰の目も気にせず、彼女の視線を独り占めできるこの時間は、贅沢すぎて少しだけ苦しい。
「ねえ、高橋くん。大阪、いよいよ来週だね。準備は大丈夫?」
「……体は仕上がってます。あとは、向こうの空気に呑まれないようにするだけです」
「そっかぁ。……私ね、実は本当に感謝してるんだよ、高橋くんに」
「感謝……?」
急に真面目なトーンになったので、俺は少し背筋を伸ばした。
新任としての苦労とか、俺の頑張りに勇気をもらったとか、そういう立派な言葉が続くのかと思ったら―――
彼女はパアッと顔を輝かせて、指折り数えながら幸せそうに笑った。
「もう、最近はそのことばかり考えちゃって。……ねえ、約束のお好み焼きも、おいしいところガイドブックで探してみようか?」
あまりに「先生らしくない」直球な食欲に、俺は思わず吹き出してしまった。
「……なんすかそれ。結局、食べ物のことだけじゃないですか」
「あはは、バレた? でも、本当に楽しみなんだもん。高橋くんのおかげで、私の夏休みがすっごく豪華になりそう」
彼女は照れたように笑い、それから少しだけ声を落として俺を見た。
「……だからさ、思いっきり泳いできて。美味しいものを食べた時の、最高に幸せな顔でさ」
その適当で、でも彼女らしい励ましに、肺の奥に溜まっていた全国に対する重たい塊が、ふっと軽くなった気がした。
「……わかりました。先生が食べ歩きすぎて迷子にならないように、俺、ちゃんとエスコートしますから」
「あ、ひどい! 私だって地図くらい読めるよ!」
真夏の光の中で、彼女と笑い合う。
八月の大阪。その舞台の向こう側に。
お好み焼きよりも、たこ焼きよりも、もっと確かな「何か」が待っているような気がして、俺はもう一度、水の中へと飛び込んだ。




