第4話「臨界」
落ちる。
底のない場所へ。
音が消える。
重さも消える。
ただ——
“見えている”
ゆたかが目を開ける。
そこは——
白い空間。
上下も、左右もない。
境界が曖昧。
だが——
“いる”
遠く。
女。
アクロバティックさらさら。
現実よりも近い。
現実よりも濃い。
人面犬が横に立つ。
「ここが中か」
軽く肩を回す。
「気持ち悪ぃな」
ゆたかが周囲を見る。
「桃太郎は?」
その瞬間。
“音”
足音。
規則的。
振り向く。
桃太郎。
立っている。
だが——
様子がおかしい。
目が開いている。
だが焦点が合っていない。
そして——
“増えている”
周囲に。
同じ桃太郎が。
何人も。
同じ顔。
同じ姿。
ただし——
違う。
それぞれが、違う方向を見ている。
人面犬が低く言う。
「分裂してやがる」
ゆたかが理解する。
「認識やな」
一拍。
「全部“見てる桃太郎”や」
そのとき。
一人の桃太郎が呟く。
「……見なければならない」
別の一人が言う。
「……逃げるな」
さらに別の一人。
「……正しくあれ」
声が重なる。
増えていく。
同時に。
空間が歪む。
女が動く。
軽く。
跳ねるように。
そして——
桃太郎たちの間を、すり抜ける。
触れない。
ただ——
“見せる”
一人の桃太郎の前で止まる。
顔を覗き込む。
近い。
異常な距離。
「……見て」
囁く。
その桃太郎が固まる。
完全に。
固定。
人面犬が舌打ちする。
「まずいな」
ゆたかが前に出る。
「分けるで」
一歩。
踏み込む。
“ドンッ!!”
拳を振るう。
空間に。
見えない壁。
ヒビが入る。
その瞬間。
一人の桃太郎が弾けるように消える。
人面犬が笑う。
「効いてるな」
だが——
すぐに。
別の桃太郎が増える。
同じように。
「……見なければ」
止まらない。
増殖。
ゆたかが舌打ちする。
「キリないな」
そのとき。
女が——
こちらを見る。
初めて。
ゆたかと人面犬を。
視線が合う。
一瞬。
“重い”
人面犬が顔をしかめる。
「……おい」
一拍。
「こいつ、強くなってねぇか」
ゆたかも感じる。
圧。
明らかに増している。
神父の言葉がよぎる。
“完全固定”
ゆたかが呟く。
「臨界か」
その瞬間——
空間全体が震える。
白が歪む。
黒が混ざる。
境界が崩れる。
そして——
“現れる”
巨大な影。
形はない。
だが——
確実に“いる”。
空間そのものが、見ている。
人面犬が低く言う。
「……出てきやがったな」
ゆたかが睨む。
「黒幕か」
声はない。
だが——
圧が語る。
“観測している”
女が笑う。
「ほら」
一拍。
「見られてるで?」
その言葉。
全ての桃太郎が反応する。
一斉に。
上を見る。
巨大な“何か”を。
その瞬間——
全員が止まる。
完全に。
固定。
人面犬が吐き捨てる。
「終わりだな」
ゆたかが歯を食いしばる。
「まだや」
一歩。
前に出る。
女を見る。
そして——
その奥を見る。
黒幕。
直接ではない。
だが——
“繋がっている”
ゆたかが言う。
「そこや」
狙いを定める。
人面犬が笑う。
「やる気かよ」
ゆたかが答える。
「当たり前やろ」
拳を握る。
力を込める。
空間が軋む。
そのとき。
桃太郎。
一人だけ。
動く。
ゆっくりと。
視線を——
下げる。
巨大な“何か”から。
外す。
震えながら。
それでも。
下げる。
ゆたかが気づく。
「……戻りよる」
人面犬がニヤリと笑う。
「いいねぇ」
桃太郎が呟く。
「……見ない」
一拍。
「選ぶ」
空間が揺れる。
女の動きが止まる。
黒幕の圧が、わずかに揺らぐ。
臨界の中で——
初めての“抵抗”
■ 第9章 第4話 終




