第3話「侵食」
暗い。
目を閉じているはずなのに——
暗くない。
“いる”
すぐそこに。
視界の奥。
輪郭だけが、はっきりしている。
ななが息を呑む。
「……おるやん」
目を閉じているのに。
見えている。
女。
揺れる髪。
異様に軽い動き。
消えない。
ゆたかが低く言う。
「来たな」
人面犬が舌打ちする。
「第二段階だ」
神父が静かに補足する。
「視覚から“認識”へ移行しています」
一拍。
「すでに外界とは関係ありません」
沈黙。
つまり——
逃げ場がない。
ななが震える声で言う。
「目閉じても意味ないやん……」
桃太郎。
動かない。
目を閉じている。
だが——
呼吸が荒い。
見えている。
完全に。
女が——近づく。
ゆっくりと。
視界の中で。
距離が縮まる。
止まらない。
「……来る」
桃太郎が呟く。
その瞬間。
“ドンッ!!”
現実の体が、後ろに吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられる。
ななが叫ぶ。
「桃太郎!!」
だが——
桃太郎は、何も見ていない。
現実を。
ただ——
“内側”を見ている。
神父が言う。
「完全に侵食されています」
一拍。
「視覚と現実の区別が消えています」
人面犬が吐き捨てる。
「最悪だな」
ゆたかが動く。
桃太郎の前へ。
しゃがむ。
「おい」
反応なし。
目は閉じたまま。
だが——
震えている。
恐怖。
明らかに。
ゆたかが軽く頬を叩く。
「戻れ」
反応なし。
ななが焦る。
「どうすんねんこれ!!」
神父が言う。
「外からの刺激では不十分です」
一拍。
「内側に介入する必要があります」
沈黙。
意味は一つ。
ゆたかが言う。
「入り込むしかないな」
ななが戸惑う。
「は?」
人面犬がニヤリと笑う。
「面白ぇ」
一歩前に出る。
「やるか」
神父が短く言う。
「危険です」
一拍。
「戻れなくなる可能性があります」
ゆたかが肩をすくめる。
「今さらやろ」
桃太郎を見る。
倒れている。
呼吸が荒い。
だが——
まだ壊れてはいない。
ゆたかが決める。
「行くで」
そのとき——
周囲。
他の人間たち。
同じように。
立ったまま。
座ったまま。
倒れたまま。
目を閉じている。
だが——
見ている。
同じものを。
一人が呟く。
「……綺麗や……」
別の一人も。
「……逃げられへん……」
さらに。
誰かが笑う。
壊れたように。
街全体が——
“侵食”されている。
ななが震える。
「……もう終わりやんこんなん……」
神父が否定する。
「いいえ」
一拍。
「まだ段階です」
ゆたかが聞く。
「上があるんか」
神父が答える。
「はい」
一拍。
「完全固定です」
沈黙。
それが来れば——
戻らない。
人面犬が言う。
「その前に叩くぞ」
ゆたかが頷く。
「せやな」
桃太郎に手を置く。
目を閉じる。
呼吸を整える。
そして——
“入る”
感覚が変わる。
落ちるように。
暗闇へ。
ななはその場に残る。
神父と共に。
震えながら。
「……戻ってこれるんやろな」
神父は答えない。
ただ——
空を見る。
見えない何か。
確実に、近づいている。
そのとき。
“静寂”
また。
完全な無音。
声。
すぐ隣で。
冷たく。
「遅い」
一拍。
「もう、深い」
ななの体が凍る。
神父の目が細くなる。
ゆっくりと。
言う。
「……観測されている」
空気が戻る。
音が戻る。
だが——
もう後戻りはできない。
ゆたかたちは——
“内側”へ入った。
■ 第9章 第3話 終




