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ユリアとマリアンヌの魂を入れ替えて元に戻すという方針で動き始めたものの、当然それらは表沙汰にされずに進められていた。
まず、現在のユリアの体の中にはマリアンヌがいる。しかも、ユリアの体でテネブラエ公爵夫人を殺害した。ユリアの体と名前を持った状態で、殺人犯として裁く訳にはいかない。
そしてマリアンヌの体の中には、ユリアがいる。その体は、四人もの人間を殺害して生贄に捧げ、禁術を行った人物のものだ。
その事実は、あまりにも異常で、事実として公開するには危険すぎた。
また、禁術の存在そのものも公にする訳にはいかない。禁術が使われた事。まして、王家がその禁術を再び用いて、魂を元の肉体へ戻そうとしていることなど、絶対に外へ漏らせなかった。
聖女フェリシアーナの件で神聖教会の力は大きく削がれた。だが、それは国内の話でしかない。教会の本部である神聖教国が、禁術が使用された事を口実にグランデュクス王国の内情に踏み込む口実を得るようなことがあれば、どれほど面倒なことになるか分からない。
禁術を使った女を裁くために、王家がさらに禁術を使う。
それが「被害者を元に戻すため」だとしても、世間が、教会が、他国が、素直に納得するはずがない。
よって、全ては秘密裏に進められることになった。
テネブラエ公爵夫人の葬儀も、粛々と行われた。だが、そこに実の娘であるユリアはいない。
正確に言えば、マリアンヌの体でユリアは出席していた。
黒の喪服に身を包み、テネブラエ公爵とユーリスの後ろで、声も出せずに泣いていた。きっと周囲からは婚約者の母親の突然の死に嘆く令嬢に見えただろう。
だが、世間がユリア・イシュ・テネブラエとして認識している人物は、そこにいない。
あのマリアンヌの魂が入ったユリアの体を、母親の葬儀に出すことなど出来るはずがない。
亡くなった夫人の棺の前で、その体にいる女が何をするか分からなかった。
それに、事情を知らぬ者達の前で、ユリアの体をしたマリアンヌが、自らの手で殺したテネブラエ夫人の「娘」として振舞うなど、俺には到底耐えられなかった。
表向き、ユリアは母を急に失った衝撃で体調を崩し、王宮で王家専属医師の治療を受けている、ということになっていた。
ユリアの名誉のためにも、テネブラエ公爵夫人殺害の重要参考人として、ユリアの体に入ったマリアンヌが王宮内に拘留されていることは伏せられていた。
真実を知る者は、ごく限られている。
当事者であるユリア、そして俺と父上とその側近、叔父上。テネブラエ公爵とユーリス。ボヌフォワ公爵夫妻とエリオット。
そして、禁術解析に関わる数名の魔術師と、王宮専属医師。それだけだ。
外部に決して漏らせないこの話をするために城の奥深く、普段は使われることの少ない一室で、俺は叔父上と向かい合っていた。
机の上には、禁書庫から持ち出した写本や、マリアンヌの部屋から押収された紙片、絨毯の下の魔法陣を模写した図が並べられている。
この禁術を発動するためにどんな素材が必要かが書かれたリストも。使う物の中にはただ貴重なだけの素材も多い。それらのほとんどは王家の力を使えば問題なく集められる物だった。ただ、リストに載っている何項目かは、見ているだけで胸が悪くなるようなものの名前が並んでいた。けれど、ユリアを救うためには必要なものだった。
「禁術の実行予定に合わせて、死刑囚を秘密裏に利用する手配をしてくれたそうだな」
「……はい」
叔父上が資料から顔を上げずに言った言葉に、俺は答えた。
「既に刑が確定している者です。表の記録上は、刑の執行が早まるだけになるよう操作してあります」
禁術を行うには、マリアンヌがそうしたように生贄がどうしても必要だという。
その事実を聞いた時、ユリアは青ざめた顔で「それなら私は」と言いかけた。
元に戻らなくてもいい。
そう言おうとしたのだと、分かった。だが俺は、それを聞きたくなかった。
ユリアを元の体に戻す。そしてマリアンヌに相応の罰を受けさせる。それ以外の道など、考えたくなかった。
「ありがとう、レオンハルト」
「いいえ。ユリアのためですから」
そう言ってから、俺は目を伏せた。
「俺の方こそ、禁術の解析を叔父上にほとんど任せきりにしてしまっていて申し訳ありません」
「こういった事は適材適所だ。レオンハルトがこの禁術を解明するのは流石に無理だろう。学園でやるような紋章術とはレベルが違う」
「……それも、そうですね」
「それに、君には君の役目がある。死刑囚についてもそうだが、私がこれら全ての事が表に出ないように完全に情報操作をして準備を進める事は出来なかっただろう。この件の中心になって統括しているだけでなく、王太子として通常の執務もしているだろう。あまり無理をして体を壊すなよ」
叔父上の言葉は正しい。
だが、俺の胸の中はユリアを一刻も早く元に戻したいという焦燥で焼かれていた。あの女に、これ以上ユリアの体を好きにさせるわけにはいかない。一刻でも早く、あの汚れた存在をユリアの体から追い出さないと。ユリアだって、マリアンヌなんかの体をいつまでも使わせるわけにはいかない。
その思いが俺の中で日を追うごとに強くなっていた。
マリアンヌに罰を与えるためにも、そうしなければならない。
今のままでは、彼女はユリアの体にいる。これほどの罪を犯していても、その体を傷つけることは出来ない。処刑など、当然出来ない。
それに――。
俺はユリアと結婚する。そう思っていた。
だが、マリアンヌの体になったユリアでは、王家に嫁ぐことが出来ない。ボヌフォワ公爵夫人は他国の王族出身であり、マリアンヌの体にはその国の継承権も絡んでいる。政治的に、あまりに問題が多すぎた。
それに、マリアンヌ自身はユーリスの婚約者である。魂が入れ替わっている事を公表できない以上、婚約者を入れ替える事なんて出来ない。
だから元に戻さなければならない。ユリアのために。国のために。俺のために。
俺は、自分がどこまで自分本位なことを考えているのか、その時は気付いていなかった。
問題は、マリアンヌが抵抗を始めたことだった。彼女は元の体に戻れば犯した罪を裁かれ処刑されると理解している。だから、ユリアの体をわざと傷付けようとしていた。
ユリアの持病のために処方されている薬は飲ませても吐く。健康的な食事を摂ろうとせず、体調維持のための運動も拒否し、医師や俺達が注意しても当然聞かない。何かあるとすぐに自分の体に爪を立てて「言う事を聞かないならユリアの体を傷付けるわよ」と脅す。
強く拘束することも出来ない。罰を与えることも出来ない。
それは、ユリアの体だからだ。
俺達は、マリアンヌを罪人として扱いたくても、目の前にある体がユリアである限り、あまりにも無力だった。
その現実に、最も怯えていたのはユリア本人でもあった。
マリアンヌの体をしたユリアは、日に日に美しく、健康的になっていった。あれほど肉の付いていた体は今では普通、いやむしろ健康的で引き締まった体躯となっていた。
けれどその目は昏く、元の体への不安が影のように差している。
「……元に戻ったとして、私はどれくらい生きられるのでしょうか」
ある日、ユリアは事情を知っている王宮医師にそう尋ねた。医師は沈黙した。ユリアはそれだけで答えは分かってしまったのだろう。
ユリアの体は、元々病弱だった。厳密な食事管理、休息、薬、魔力制御。そうしたものを全て丁寧に積み重ねて、ようやく普通の生活を送れていた体だ。子供の頃は何度も倒れていて、出産には耐えられないと昔から言われていた。そのために俺は将来側妃を持つ事を定められていたほどだったのに。
今、その体はマリアンヌによって乱暴に扱われている。
薬もきちんと服用していない上に、急激な体重増加と、長期の栄養の偏りまである。
医師は、長い沈黙の後、静かに言った。
「そのご不安は、現実的なものです」
そう聞いたユリアの顔が、わずかに歪んだ。
「元に戻っても、長くは生きられないかもしれない、ということですね」
「断定は出来ません。ですが、以前と同じだけの体力が残っていると考えるのは危険です」
俺は、その場で何も言えなかった。
それでも、俺は元に戻す以外の道を選べなかった。ユリアが不安に怯えていると分かっていても、だが、そうしないとこの状況を正せないではないか。
それが正しいのだと信じていた。そうしなければ、ユリアを取り戻せないと思っていた。
儀式の準備は、少しずつ整っていった。
禁術については、叔父上を中心に解析が終わっている。秘密裡に、ユリアに使う生贄とは別で死刑囚を使って魂の入れ替わりが本当に再現できるかも確認した。
本番で使う素材達も、禁術を実行する部屋に移され、床には魔法陣が描かれている。
既に刑が執行された事になっている死刑囚達の移送も完了して、後は当日を迎えるだけ。実行の直前まで来ていた。
しかしその日、ユリアの体に入ったマリアンヌのを管理していた王宮医師が青い顔で俺達の前に現れた。
「殿下。アシュベル殿下。……大変申し上げにくい事ですが、問題が起こりました」
嫌な予感がした。医師は、一度深く頭を下げた。
「ユリア様のお体に、懐妊の兆候がございます」
部屋の音が消えた。俺は、医師の言葉を理解するのに数秒かかった。
「……何を」
声が出た。だが、自分の声ではないようだった。
「妊娠している、ということか」
叔父上が淡々と確認する。
「はい。まだ初期ではありますが、ほぼ間違いないかと」
俺の視界が揺れた。まるで床が傾いたようだった。
マリアンヌ。
ユリアの体にいるマリアンヌ。その体が、俺の子を宿している。
いや、違う。俺とユリアの子ではない。
俺と、ユリアの体をしたマリアンヌの子だ。
そう自覚して、胃がひっくり返りそうになった。
「レオンハルト」
ユーリスの声がした。彼は、ゆっくりとこちらを向く。
「どういうことだ」
逃げられないと思った。
俺は、ずっとその記憶を奥底に押し込めていた。
ユリアだと思っていた。愛する婚約者だと思っていた。泣きながら縋られ、死ぬと脅され、それ以外に宥める術が分からず拒み切れなかった。
だが、それがマリアンヌだったと知った瞬間から、俺はその記憶を直視できなくなって、頭の中から無意識に追いやってしまっていたのだ。
「……一度」
声が震えた。
「ユリアだと思っていた時に……愛している証拠を見せてくれないと死ぬと脅されて……拒み切れず……」
次の瞬間、ユーリスの拳が俺の頬に入って、今度こそ体が大きく傾く。
ユーリスは、泣いていた。
「何故だ」
彼の声は、怒鳴り声ではなかった。それが、余計に恐ろしかった。
「お前は知っていただろう。ユリアの体が、出産に耐えられないかもしれないと。昔から、そう言われていただろう」
「……知っていた、けれど」
「なら、どうして妊娠するようなことをした!」
その言葉に、何も返せなかった。
俺は王太子で、ユリアを愛していて、彼女を守るつもりだった。だが実際には、彼女の体を危険に晒している。死ぬ、と命を盾にされたとしても流されてはいけなかった。
相手がマリアンヌだとは知らなかった。そう言い訳しても、ユリアの体にとって出産が命に関わると知っていた事は変わらない。
自分の体が妊娠したと知ったユリアは……その相手が俺だと知ったユリアはどんな反応をするか。考えるだけで死にたくなった。
何も言えない。どう謝っても、償っても足りない。
だが、さらに残酷な問題があった。
「魂を入れ替える禁術の実施は一旦中止だ」
ユリアの体に入ったマリアンヌが妊娠している。その事実を周知して関係者が集められると、叔父上がそう言った。
「体内に、母体と胎児、二つの魂が存在している。そこへ魂交換の禁術を行えば、何が起こるか分からない。母体だけでなく、胎児の魂を巻き込む可能性もある」
「では、このまま……さらに半年以上、ユリアは元に戻れないという事なのか?」
俺は愕然として言った。
「そうなる」
「そんな……!」
耐えられなかった。ユリアが、さらに半年以上マリアンヌの体のままだなんて。
それに、マリアンヌもユリアの体をさらに傷つけ続けるだろう。その間に、体はもっと衰弱するかもしれない。
出産でユリアの体が耐えられない可能性は上がる。
「なら……」
言葉が、勝手に出た。
「ユリアのためにも、その子は……諦めても」
部屋の空気が凍り付いた。ユリアが、マリアンヌの瞳で俺を見る。あの毒々しい緑色の瞳が、ユリアの目で。
「レオン様」
その声は、とても静かだった。だが、怒っている事が容易に分かった。
「今、何を仰いましたの」
「だって、その子は……本当のユリアと俺の子ではない。マリアンヌが……それに、ユリアの体が出産に耐えられないかもしれないなら……」
「その子に罪はありません」
ユリアは、はっきりと言った。
マリアンヌの体になった彼女は、以前よりさらに痩せ、磨かれたように美しくなっていた。だが、その瞳はユリアのままだった。
優しく、けれど譲れないものの前では決して曲がらない、俺が愛した人の目だった。
「この事件で、もうこれ以上命が失われるべきではありません」
「ユリア、だが」
「私の体に宿っている命です。ならば、私は生まれてほしいと思います」
言葉を失った。ユーリスが、目元を拭いながら頷いた。
「ユリアがそう望むなら、俺はそれを支持するよ」
「……きっと妻も、同じ事を言っただろう」
テネブラエ公爵も、重く頷く。話を聞いた父上もまた、王として結論を出した。
「直系の王族の血を引く子を失わせることは認められぬ。加えて、ユリア嬢本人が生まれることを望んでいる。ならば、私は王としてその子を守る」
俺は、何も言えなかった。
ユリアが生まれてほしいと言った。何より、俺はこの状況を作り出した原因だ。生まれてくる子供よりもユリアの体の安全を守りたいなどと、もう口に出せない。
なら、俺は受け入れるしかなかった。
それから、長い時間が過ぎた。
季節が移り、ユリアのお腹の中の子供は順調に育って行った。
マリアンヌは、最初こそ勝ち誇っていた。自分がユリアの体にいられる時間が延びたことを喜んでいた。だが、体調がどんどん悪くなっていく事を考えてはいないようだった。
医師達は懸命に管理したが、元々病弱だったユリアの体は、持病の薬を飲んでいなかった期間も長く、不健康に太ってしまい、出産に耐えるにはあまりにも脆くなってしまっている。
そして……産声が響いた日、生まれたのは男の子だと告げられた。
同時に、事情を把握している医師からユリアの体は死に瀕している、とも教えられた。
俺は、そのまま出産が行われていた部屋の中に呼ばれた。マリアンヌが、俺の名を呼んでいるからと。
中にいる者はみな、あわただしい空気の中バタバタと動いていた。
どこか現実感のない、全ての音が水の向こう側から聞こえるような不鮮明な空気の中、血の匂いと薬の匂いが混ざった部屋の中を俺は歩いて行く。
医師達の顔は青い。産婆や助手の女性達は泣きそうな顔をしている。
寝台の上に、ユリアの体があった。
青白い顔。むくんで膨らんだ頬。弱々しく上下する胸。シーツの上に広がる柔らかな銀色の髪。
俺が愛した女性の体。……俺が守れなかった体だ。
「レオン……様……」
その唇が、俺の名を呼んだ。
中にいるのはマリアンヌだ。分かっている。
それでも、目の前で命の灯が消えかかっているのは、ユリアの体だった。
「ユリア……」
俺は、思わずそう呟いた。マリアンヌの目が悲し気に揺れる。
「違う……わたくしは……マリアンヌで……」
涙が混じった、かすれた声だった。
「レオン様……お願い……せめて一度……」
あの愛しい菫色が、俺を見上げる。死に瀕して、寝台に横たわって、俺の名前を呼んでいる。
「憎しみからではなく……愛をこめて……わたくしの名前を呼んで……」
俺は、その手を握っていた。ユリアの手だった。驚くほど冷たいその手に、命が失われていくのを感じて体が震える。
「ユリアと結婚して、幸せな夫婦になりたかった」
口から出たのは、それだった。間違いなく俺の心からの本音だ。
その言葉を聞いて、マリアンヌの瞳から涙がこぼれた。
「どうして、こんなことに……あの女が、あんな事さえしなければ……」
「レオン様……」
「君を守りたかった。君の事を、君の未来を、全部……」
「お願い……わたくしの……名前を……」
俺は、呼ばなかった。
死ぬ寸前になっても情けをかける気すら起きない。お前のせいで俺はユリアと幸せに結ばれる未来を奪われたのだ。
「俺はユリアを愛しているよ」
握っていた手から力が抜けて指が解けた。ユリアの体の手が。
俺はマリアンヌの事を見ていなかった。マリアンヌが奪ったユリアの体が損なわれる事だけが悲しかった。その瞬間、マリアンヌの目から光が消えた。
ユリアの体は、静かに息を引き取った。医師が臨終を告げる声が部屋に静かに響く。
俺は、その手を離せなかった。
赤子の泣き声が、遠くから聞こえた。誰かが俺に声をかけていたかもしれない。けれど、何も耳に入らなかった。
ここにはユリアはいない。中にいたのも、ユリアではなかった。
それでも、この手はユリアの手だった。
俺は、ただその事実だけを抱えて、動けずにいた。




