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俺が泣き崩れるユリアを見つめたまま身動き一つ出来ずにいる間、叔父上はするべき事をするために動いていた。
王宮から魔術師と近衛兵を派遣するとともに、自身もボヌフォワ邸へと向かったのだ。ユリアが証言した、マリアンヌの部屋に残された魔法陣が本当に禁術とされるものかどうかの確認のためだ。禁術はその存在自体が秘されている。王族か、それに連なる者とごく限られた重臣でない限り資料の閲覧すら出来ない。
そのためアシュベル叔父上は、王族として禁術を確認に行ったのだろう。優秀な魔術師でもある叔父上が確認すれば間違いない。
いつの間にか叔父上の姿が消えているのに気付いた俺が顔を上げると、ユーリスがユリアの肩をそっと抱いていた。
ユリアは泣き続けている。マリアンヌの体で。声を抑えようとしているのに、喉から漏れる嗚咽を止められない様子だった。
「ユリア、帰ろう」
ユーリスが優しく言う。肩を震わせて泣く彼女の頭を抱き寄せ、小さな子供にするように頭を撫でている。そうしているとユリアは、ほんの少し落ち着いたように見えた。
「今は休んだ方がいい」
「でも……お母様が……」
「分かっている。分かっているよ。けれど、君が倒れたら、母上はもっと悲しまれる」
その言葉に、ユリアはまた泣いた。テネブラエ公爵も、ユーリスのその言葉を聞いてゆっくりと頷いた。
「ユリア。ユーリスと一緒に先に帰って、お父様の帰りを待っていてくれるか」
その言葉に、ユリアは一瞬だけ顔を上げて、涙に濡れた瞳で自分の本当の父親を見上げた。
「陛下、娘は当事者ですが、本日は屋敷に下がらせていただいてよろしいでしょうか」
「ああ。この状況では致し方ない。ただ後日事情を聞く事にはなるだろう」
「ご配慮いただきありがとうございます」
テネブラエ公爵は、ボヌフォワ公爵夫妻に向き直ると再び頭を下げる。
「体こそご息女ですが、中身は私の娘です。突然母親を失って動揺しているこの子に家族として付き添ってやりたいと思います。しばらくの間、ユリアとしてうちで過ごす事をお許しください」
「ええ、もちろん……当然です」
テネブラエ公爵の屋敷。彼女の本来の家、だが彼女は今マリアンヌの体をしている。
それでも公爵は、自分がユリアの父親だと言った。
ユリアはその父親の言葉に両手で顔を覆い、しばらく声もなく涙を流していた。
「……はい、お父様。私、お兄様と一緒に家でお待ちしてます」
俺は、その一言を聞いて、また胸が痛んだ。
ユリアは家族の元へ帰るのか。
俺ではなく、彼女を最初に受け止めるべき人達の元へ。そう思って身勝手にも寂しさを覚えた。
当然のことだ。俺はユリアがユリアであると見抜けなかった愚かな婚約者だ。俺が傍で支えたいなどと願う資格などない。
それでも、彼女が部屋を出ていく時、俺は思わず声をかけそうになった。
だが、ユーリスが俺を見た。責めるでもなく、ただ静かに、今はやめろと告げる視線で。俺は唇を閉じた。
ユリアはユーリスに支えられながら部屋を出ていった。テネブラエ公爵は、娘の背中が扉の向こうに消えるまで見送っていたが、やがてゆっくりと視線を戻す。部屋を出ていく……ユリアのものではないその後姿を、俺は見送ることしかできなかった。
「マリアンヌは……ユリア様のお体に入ったマリアンヌは……どうしてテネブラエ公爵夫人を殺したりなんてしたのですか……?」
「……マリアンヌ本人からはまだ話を聞いていないので、状況から推測した事なのですが……」
俺は、ここにいない叔父上の代わりに、ボヌフォワ公爵に説明を始めた。
本物のユリアにはこれまで入れ替わりについて口外できなくなる呪いがかけられていたが、今はその呪いが効力を失っている事。それはおそらく、呪いによって封じられた秘密が看破された――夫人が、マリアンヌとユリアが入れ替わっている事に気付いたために解けたのだろうと思われる。
その事から、テネブラエ夫人に入れ替わりに気付かれたマリアンヌが、口封じのために殺し、それを第三者の犯行に見せようとしている可能性が高い、と正直に話した。
テネブラエ公爵は、膝の上に拳を乗せてぐっと唇を噛んで俯いた。
妻を失い、娘の体を奪われ、それでもなお公爵として、父として、倒れることを許されていない姿が痛ましい。
ボヌフォワ公爵夫妻は、俺の話を聞いて青ざめたまま言葉を失った。
公爵夫人など、今にもその場に崩れ落ちそうだった。自分達の娘が、禁術に手を染めたかもしれない。人を殺し、巧妙に罪まで逃れようとしている。そもそも、今まで改心したと思っていた娘が、実は娘ではなかった。
そんな現実を、誰がまともに受け止められるというのか。
やがて、扉が叩かれた。
入ってきたのは、先ほどアシュベル叔父上とボヌフォワ侯爵邸に向かった王宮魔術師の一人だった。彼はこの部屋で一番身分が高い存在――父上に深く頭を下げると、慎重に口を開く。
「報告いたします。ボヌフォワ公爵令嬢の私室、寝台天蓋の真下に敷かれていた絨毯の下から、証言通り魔法陣を認めました」
部屋の空気が、さらに重くなった。
「また……魔法陣の描画には通常の魔術触媒の使われているインクではなく、血液と思われるものが使用されております。魔法陣の一部は発動時の魔力反応の消耗により判別が難しい状態ですが、残存する配列は、王城禁書庫に記録された禁術で間違いない、とアシュベル殿下が確認されました」
「やはりか」
苦々しく呻く父上。分かっていた事だが、これでマリアンヌによって禁術が使われた事は確定した。
「さらに……簡易的な家宅捜索を行った所、魔法陣が書かれた床板の下から……四本の瓶が発見されました」
「瓶?」
あまりにも、その先を話し辛そうな様子の魔術師に、父上が低く問い返した。
だが、ここで迂遠な言葉を使い全貌の把握を遅らせる事は許されないと判断したのだろう。抑えた声で、淡々と続けた。
「中身は、人間の心臓と思われます。四点、全てです」
ボヌフォワ公爵夫人が、喉を詰まらせるような音を立てた。
「……四……? 人の心臓が……?」
ボヌフォワ公爵の声は、掠れていた。
「アシュベル殿下がおっしゃるには、おそらく禁術に使用した生贄だと……」
俺も、内臓が冷える感覚を覚えた。当然だが、人は心臓を失っては生きていけない。つまり、マリアンヌの部屋にあった心臓の持ち主は……。
それが四つも。
ユリアが見つけた魔法陣だけではない。マリアンヌは、その禁術を行うために使った哀れな被害者の一部をまだ隠していたのだ。
魔術師は、さらに続ける。
「また、調査の過程で、邸内の庭にある古井戸から、若い女性の遺体が二体……発見されました。詳細な検分はこれからですが、発見された心臓の持ち主のうちの二名である可能性が高いと見ています」
「もうよい」
父上の短い返答は、怒りを強く抑え込んだものだった。
ボヌフォワ公爵夫人がとうとう自分の体を支えきれず、椅子から崩れ落ちる。
公爵が咄嗟に支えようとしたが、その腕も震えている。壁際に控えていた侍女と近衛が手を貸して支え、夫人はかろうじて床へ倒れ込まずに済んだ。
「奥方様……!」
「医師を呼べ」
父上の命令に、侍従がすぐに動く。
ボヌフォワ公爵は、妻を支えたまま、呆然とした目で空中を見ていた。テネブラエ公爵夫人だけでなく、その他に四人もの命を奪っている。
その証拠が、自分の屋敷から出た。
それでも彼は、マリアンヌの父なのだ。
何も言えず、ただ震えるその姿に見ている俺の胸が重くなった。俺はマリアンヌを憎んでいる。今この瞬間も、怒りと嫌悪でどうにかなりそうだ。
けれど、その親まで同じように憎むことはできなかった。
「ボヌフォワ公爵」
父上が静かに声をかける。
「夫人は休ませた方が良い。今日はこれ以上の同席は難しかろう」
「…………ご配慮痛み入ります」
ボヌフォワ公爵は、しばらくしてから、ようやく返事をした。
彼はテネブラエ公爵を見ていた。その視線は、言葉にできないほど複雑だった。
自分の娘が体を奪った少女の父親、自分の娘が殺した女性の夫。
ボヌフォワ公爵の顔は痛ましいほど歪んでいた。
「……テネブラエ公爵閣下」
彼はかすれた声で言った。
「大変……申し訳ない事を……」
テネブラエ公爵は、奥歯を噛み締めたままの表情で首を横に振った。
だが、その後に言葉は続かなかった。
彼ではない、だがテネブラエ夫人を殺したのは、彼らの娘だ。その現実が公爵の声を奪っていた。
ボヌフォワ公爵夫人は、ほとんど意識が朦朧としているようだった。夫と侍女に支えられながら部屋を出ていく直前、彼女もまた虚ろな目で振り返る。
その視線には、謝罪も、懺悔も、戸惑いも、喪失も、全てが混ざっていた。
二人が部屋を出ていって、側仕え達の他は父上と俺、テネブラエ公爵が部屋の中に残される。
最初に沈黙を破ったのは、俺だった。
「父上」
自分の声が、思ったより低いことに気付く。
「ユリアの体に入っているマリアンヌ・ヘクト・ボヌフォワへの逮捕命令をお願いします」
父上は、俺を見た。
「相手はテネブラエ公爵令嬢の体だ」
「分かっています。ですが、中にいる魂はマリアンヌです。禁術の使用、複数人の殺害、テネブラエ公爵夫人殺害の嫌疑もある。これ以上、自由にしておく理由はありません」
言葉にしながら、胸が痛んだ。拘束されるのはユリアの体だ。
あの体に縄をかけ、兵で囲み、罪人として扱うなんて俺も心が痛い。けれど、それでも必要だった。
父上はしばらく目を閉じていたが、やがて重く息を吐いた。
「テネブラエ公爵、避けられぬ事だ。ご息女の体だが……」
「……承知しております」
その言葉で、王としての判断が下された事が分かった。
「公爵令嬢の逮捕命令など異例だ。まして、体が本人のものではない以上、扱いは慎重を極めよ。だが、犯した罪の重さを考えると、現在の『保護』という名目では足りぬ」
父上は侍従へ視線を向ける。
「近衛を付け、魔力封じの拘束具を用意せよ。当分表向きは、事件関係者の保護とする。だが実質、拘留だ」
「はっ」
侍従が頭を下げ、部屋を出ていく。
その瞬間、俺はようやく、一歩進んだのだと思った。だが同時に、取り返しのつかないところまで来たのだとも思った。
俺は、ようやく自分が向かうべき場所に足を向ける。
マリアンヌ。
ユリアの体に入り、ユリアの母を殺し、禁術を使うために何人もの命を奪い、俺達全員を欺いていたた女。
彼女は今、王宮内の一室にいる。名目上は、事件の目撃者であり、襲撃を受けて被害者の出た屋敷から王太子の婚約者を保護する必要がある、として。
俺は、その部屋へ向かった。
絨毯を自分の靴底が叩く音が、やけに大きく響いた。近衛が後に続く。
怒りで視界が赤くなるという感覚を、俺は初めて知った。
「殿下」
部屋の扉の前に立つと、控えていた兵が頭を下げた。
「中の様子は」
「テネブラエ公爵夫人の件で大変ショックを受けているようで……酷く嘆き悲しんでいらっしゃて、殿下にお会いしたいと泣く声がこちら側にまで聞こえておりました」
嘆き、悲しむ。
その言葉に、吐き気がした。
来訪を告げるノックの後開けた扉の内側で、ユリアの姿をしたマリアンヌが顔を上げる。
こうして見ると、どうして俺はこんなものをユリアだと思っていたのかと心底呆れる。本来のマリアンヌにどんどん近付いて醜く太った姿かたちだけではない、性根の悪さが隠しきれない醜悪さが表情に滲み出ている。
声を上げて手で顔を覆い、いかにも泣き続けていたように見えた。だが、頬もまぶたも濡れていない。そんな事も冷静に目に入ってくる。もう、薄汚い芝居としか思えなかった。
「レオン様……!」
彼女は立ち上がり、俺へ駆け寄ろうとした。
「お母様が……お母様が殺されるなんて……私、どうしたら……」
俺は一歩も動かなかった。胸に縋りつき、嘆くその肩を掴むと間髪入れずに引きはがす。体に触れられる事が耐えがたい苦痛で、俺はすぐに本題に入った。
「テネブラエ公爵夫人を殺したのは、お前だな」
その瞬間、彼女の足が止まった。
「……え?」
「聞こえなかったのか。夫人を殺したのは、お前だろう。マリアンヌ」
ふくよかなユリアの顔が、こわばった。だがすぐに、悲痛そうに眉を寄せて泣き崩れそうな表情を作る。
「何を……仰っているの、レオン様。私はユリアですわ。マリアンヌ様に傷つけられて、ずっと虐げられていて……お母様を殺されて酷く傷付いている私にどうしてそんな酷い事を……」
彼女は俺へ手を伸ばした。
以前なら、俺はその手を迷いなく取っただろう。ユリアだと思っていたから。
だが今は、その指先が近付くだけで、皮膚の下を虫が這うようなおぞましさを覚えた。
「触るな」
低く吐き捨てると、マリアンヌはユリアの顔で驚いたように目を見開いた。
「レオン様……?」
「俺に触るな。お前がその体で俺に近付くな」
ユリアの顔をした女が、怯えたように唇を震わせる。
だが、その目の奥にあるものは違う。恐怖ではなく、計算だ。何故バレたのか、どうすれば誤魔化せるのか、必死に探っている。
「どうして、そんなことを仰るの……? 私、こんなに悲しくて……レオン様に慰めていただきたいだけなのに……」
マリアンムはまたユリアの体で勝手に俺にしなだれかかろうとした。
限界だった。
「気色が悪い」
言った瞬間、俺の胸に触れようとしていた手が固まった。
ユリアの姿をしたマリアンヌが、信じられないような顔で俺を見る。その呆けている隙を狙って、首に魔力封じの枷を付けた。
「……え?」
「気色が悪いと言った。お前だと思うと、ユリアの体をしていても耐え難い」
罪状を読み上げるような、正規の手続きをするつもりはない。これ以上、抑えられなかった。
「違……わたくしは……私はユリアで、あなたの婚約者で……」
「マリアンヌ。俺はお前が嫌いだった。ずっと昔からだ」
「……っ!」
「覚えているか。お前が六歳の時、初めて会った日。俺と話していたユリアを突き飛ばし、指をしゃぶった後の汚い手で俺に掴みかかってきた。あの時から、俺はお前が心底嫌いだった。憎しみさえ覚える程だ」
「そ、んな……」
彼女の顔が歪んだ。自分はユリアだと嘘を吐く事すら忘れて。
「わ、わたくしは……ただ、レオン様と仲良くなりたくて……キラキラ輝くその御髪に触れてみたかっただけなの。ユリアをちょっと押したのだって、子供の可愛い嫉妬だわ」
「どこがだ? あの時ユリアは突き飛ばされて手首を捻挫したんだぞ?!」
怒鳴りつけるとマリアンヌは被害者ぶって体を震わせた。俺の覚えているユリアの姿と大きく違うのもあって、もう目の前の女はマリアンヌにしか見えなかった。
「でも……でも、あの時レオン様はわたくしに笑いかけてくれたし、髪を触ったのだって……他の事もいつも許してくださってるわ」
「礼儀だ。ボヌフォワ家の令嬢だから、怒鳴りつけるのを我慢して呑み込んでるんだ。お前が幸せな思い出だと思っていたものは、俺にとっては全部不快な記憶だ」
怯えたように俺を見つめるすみれ色の瞳にも、もう罪悪感は湧かない。これはマリアンヌだ。
「俺はユリアしか見ていなかった。幼い頃から、ずっとだ。なのにお前は、そのユリアをいつも傷付ける。俺がどれだけお前に怒りを抱いていたか分かるか?」
「違う、違うわ。レオン様は本当はわたくしを愛するはずだったのよ! ユリアじゃなくて、わたくしを!」
自信満々におかしな事を言い出したマリアンヌを、俺は鼻で笑った。
「マリアンヌ、お前なんて好きになるはずがないだろう」
マリアンヌは、両手で自分の顔を覆うとさめざめと泣き出した。ユリアの母を悼む時には流れていなかった涙だ。自分が我が身可愛さで奪った命だと言うのに。
「違う……違うわ……レオン様は、愛しているって言ってくださったじゃない……!」
「ユリアだと思っていたからだ」
俺は、はっきりと言った。
「お前だと知っていたら、愛情など向けなかった。愛おしく思う事も、微笑みかけることも、手を取る事も、名を呼ぶ事すらなかった」
「嘘……」
「嘘であるものか。何度、お前に消えてほしいと思ったか分からない」
マリアンヌの入ったユリアの体が震える。
「お前がいることで、周りの人間は不幸になる。ボヌフォワ公爵夫妻も、エリオットも哀れだ。あれほどまともな家族の中で、どうしてお前だけがそこまで悪辣な人間になったのだろうといつも不思議だった」
言葉は止まらなかった。
幼い頃から積もり続けていた嫌悪が、もはや遠慮などしなくていい存在となったマリアンヌを前に、今になってようやく形を得たようだった。
「そんな事ないわ……あの人達はいつもわたくしだけ虐げて……ユリアやイザベラと比べて……エリオットまでわたくしをバカにして……」
マリアンヌは、ユリアの顔で泣きそうに唇を震わせた。
ユリアの、俺が何度も愛しいと思った顔が重なる。
俺が守りたいと思っていた菫色が涙で滲む。
けれどその中にいるのはマリアンヌだと、そう思った瞬間胸の奥底から込み上げてくるものは、愛情ではなかった。
怒りでも、悲しみでもない。
もっと冷たく、もっと醜いものだった。
「違う……違うわ、レオン様」
マリアンヌは、ユリアの声でそう言った。
「わたくしは、ただ幸せになりたかっただけなの。だって、わたくしには何もなかったのよ? 誰もわたくしを愛してくれなかった。家族でさえ。皆がわたくしを嫌って、虐げて……だから、ユリアに譲ってもらおうと思ったの」
「譲って……?」
俺は、今言われた事の意味が分からなくて静かに聞き返した。
自分でも驚くほど、声が冷えていた。怒鳴りつけるよりも、ずっと鋭い声だったと思う。
「お前は奪ったんだ! ユリアの体を。ユリアの家族を。ユリアの立場を。俺の婚約者という名を。……ユリアの人生を!」
「だって、ユリアはズルイじゃない!」
マリアンヌは叫んだ。
「わたくしはどんなに頑張っても痩せられないのに子供のころから華奢で、美しいだなんて言われて、演技が上手いだけなのに優しいと思われてて、それで皆から好かれて、レオン様にも愛されて! 両親もユーリスもあの女には甘くて、皆ユリアを大切にして! わたくしがどれほど望んでも得られなかったものを、あの女は全部持っていた!」
「違う」
その言葉を、俺は一瞬の迷いもなく切り捨てた。マリアンヌが息を呑む。
「何が違うのよ……! だって実際、わたくしがユリアの体になったら、皆優しくしたわ! レオン様だって、わたくしを抱きしめてくださった! 今の君が綺麗だって、今の君が愛しいって、そう言ってくださったじゃない!」
「それは、ユリアだと思っていたからだ」
言葉にした瞬間、自分の胸にも刃が刺さったようだった。俺が愚かだった事実を認める言葉でもあったからだ。
だが、目の前の女に向ける情けなど、もうない。
「俺が愛したのはユリアだ。お前ではない。お前の魂でも、心でも、性根でもない。ユリアの体を着ていたお前に、俺は騙されていただけだ。俺が愚かだったから騙されて口にした言葉だ」
「……騙されていた、だなんて」
「そうだろう」
俺は一歩近付くと、マリアンヌは反射的に後ずさった。
その仕草だけは、か弱く見えた。だが、もう二度とそれに惑わされるものか。
「お前はずっと、自分が愛されないのは周りのせいだと思っていたのだろう。容姿のせい、評判のせい、家族のせい、婚約のせい、ユリアのせい。だから、ユリアになれば全てが変わると思った」
「……」
「だが、結果はどうだ」
マリアンヌの顔が強張る。
「マリアンヌの体に入ったユリアは、お前が作った悪評があるのにそれをひっくり返した。味方の一人もいない家で、使用人に嫌われ、家族に疑われ、それでも少しずつ信頼を取り戻した。謝罪し、学び、努力し、お前が憧れていた魔術師塔にも認められた」
「やめて……」
「美しくなった。外見だけの話ではない。姿勢も、振る舞いも変わった。お前の体でだ。お前が嫌い、何をしても変わらない、醜い、不幸だと嘆いていたその体で、ユリアは人から好かれる人間になった」
「やめてって言ってるでしょう!」
マリアンヌが叫ぶ。けれど俺は止まらなかった。
「では、今のお前は何だ?」
俺は、ユリアの体をしたマリアンヌを見据えた。
「ユリアの体を得た。皆から愛されていたユリアに成り替わった。学園で尊敬され、友人に囲まれ、教師に信頼され、使用人に大切にされていたユリアの体だ。お前は、その全てを手に入れたはずだった」
「……」
「なのに、あっという間に嫌われたな」
マリアンヌの唇が震えた。
「成績は下がった。生徒会の仕事でも信頼を失った。気遣いを忘れ、約束を守らず、使用人に暴言を吐いた。都合が悪くなれば、傷害事件の後遺症だと言って逃げると何度も相談されたよ」
「それは……だって、わたくしは……!」
「イザベラにまで拒絶された」
その一言で、マリアンヌの顔がさらに歪んだ。
「あれほどユリアを大切に思っていた親友がだ。まるで姉のように世話を焼き、時に厳しく、時に誰よりも優しくユリアを守っていた。そんなイザベラでさえ、お前から離れた」
「……違う。イザベラが、わたくしに意地悪で……」
「まだ他人のせいか」
俺は、吐き捨てるように言った。
「生まれのせいでも、環境のせいでも、体のせいでもない。お前自身の問題だ」
「……っ」
「ユリアは、お前の体でも人に好かれる存在になった。お前は、ユリアの体に入っても誰からも嫌われている。この証明に、それ以上に何が必要だ?」
マリアンヌは答えなかった。いや、答えられなかったのだろう。
「お前は人の幸せを妬む。誰かが持っているものを、自分も努力して得ようとはしない。ただ奪おうとする。欲しいものを手に入れるためなら、人も殺すし、禁術にも手を染める」
「わたくしは、愛されたかっただけで……!」
「愛されたかった?」
笑いすら出なかった。
「そんな自分勝手な理由で人を殺すのか。そんな人間だから、幸せになれないんだよ」
「違う、わたくしは……ただ……」
「俺はお前が嫌いだ」
はっきりと告げると、マリアンヌの体が、びくりと震えた。
「昔からずっと、吐き気がするほど嫌いだった」
「レオン様……」
「その名で呼ぶな。ユリアの体じゃなかったら殴ってる所だ」
俺は冷たく言った。
「お前の口からその名を呼ばれるたび、不快だった。ユリアの声で呼ばれていた時を考えると吐き気がする」
マリアンヌは、両手で自分の胸元を掴んだ。ユリアの顔で、ユリアの体で、涙を流して崩れ落ちている。
だがもう、その姿に心は動かなかった。
「俺は、お前を愛さない」
「……やめて」
「生涯、決して愛さない」
「やめて……!」
「たとえ世界にお前一人しか人間がいなかったとしても、俺はお前を選ばない」
マリアンヌが首を振る。涙が白い頬を伝った。
「嘘よ……そんなの嘘……だって、わたくしはここまでしたのよ……! ユリアになったのよ! レオン様に愛されるために、全部……全部……!」
「だからこそだ」
俺は、最後の情けすら捨てた。
「お前は、ユリアを殺そうとした。ユリアの体を奪った。ユリアの母を殺した。人を生贄にした。そんなお前を、俺が愛せると思うのか」
「……」
「死んでも好きになることはない」
部屋の中が静まり返った。
マリアンヌは、ユリアの体で床に膝をついて、流れ落ちる涙をぬぐう事すらせず俯いている。
その顔には、初めて本当の絶望が浮かんでいた。
自分が俺に愛されていなかったこと。
自分が俺に拒絶されていたこと。
自分が奪ったものでは、決して望むような幸福にはならなかった事を。
それを、ようやく理解したのだろう。
けれど俺は、その絶望にすら同情しなかった。
だが、そう言いながら、俺自身もまたその醜さを見抜けなかった愚か者なのだと、胸の底で分かっていた。
だからこそ、余計に許せなかった。マリアンヌも、そして自分自身も。
「そんな……そんなはずない……」
彼女は首を振った。
「わたくしは、レオン様に愛していただくために……そのために、禁術にまで手を出したのに……! ここまでしたのに、どうして分かってくださらないの!」
この件について事情を把握している近衛が、俺の後ろでわずかに身じろぎする。
今のは禁術を使った自白ととらえていいだろう。
俺は冷ややかに見下ろした。
「自白したな」
マリアンヌは、はっと口を押さえる。
「ち、違……」
「もう遅い。それに、テネブラエ公爵夫人の遺体からも、お前の魔力痕跡が検出されるはずだ。言い逃れしても無駄だ」
「違う、違うの……」
「ボヌフォワ邸から、生贄に使われたと思われる遺体も見つかった。心臓を抜かれた者達だ。あれもお前がやったのだな」
彼女の顔が、今度こそ真っ白になった。
「禁術の使用は死罪と定められている」
その言葉に、マリアンヌの目が揺れた。だが、視線をうろうろと彷徨わせた次の瞬間、彼女は笑った。
歪んだ笑みだった。
「……死罪?」
彼女は、ユリアの顔で笑った。
「わたくしの体は、ユリアよ」
その言葉の意味する所を理解して、あまりの浅ましさに俺の拳が震えた。
「ユリアの体を処刑するの? レオン様にそんなことが出来るのかしら」
「……」
「それに、わたくしの体には、ユリアの魂が入っているのでしょう? わたくしを罰したくても、わたくしの体には手を出せない。ユリアの体にも手を出せない。ほら、どうにもできないじゃない」
彼女は勝ち誇ったように顎を上げた。
「結局、レオン様はわたくしを殺せないわ。誰も、わたくしに手を出せない。傷付けられもしない」
殴ってやりたかった。この場で、その頬を打ち据えてやりたかった。
だが、出来なかった。
そこにあるのは、ユリアの体なのだ。醜悪な表情を浮かべるマリアンヌにしか見えなくても、ユリアの瞳。ユリアの顔。ユリアの髪だ。
どれほど中身がマリアンヌだと分かっていても、その体を傷つけることは出来ない。
俺の沈黙を、マリアンヌは勝利だと思ったのだろう。涙に濡れた顔でニタニタといやらしく笑った。
「ほら、やっぱり……」
「ならば」
扉の方から、静かな声がした。
振り向くと、いつの間に来ていたのか、叔父上が部屋の入口に立っていた。
その表情は穏やかですらあったが、目だけは冷え切っていた。
「間違ったものを正せばいい」
マリアンヌの笑みが固まる。
「マリアンヌの魂を、マリアンヌの体に。ユリアの魂を、ユリアの体に」
「……何を」
「実際に使われた魔法陣も残っている。君が城の禁書庫から盗み出した、禁術について記された書物も回収した。結構な部分が燃え残っていたので解析も出来るだろう」
マリアンヌの顔が、今度こそ崩れた。
「各所の調整が整い次第、マリアンヌ。君は元の体に戻り、『マリアンヌ』として正しく罰を受けることになるだろう」
「いや……」
彼女の声が震えた。
「いやよ……」
ユリアの体で、マリアンヌが絶望の声を上げる。
「そんなの嫌! わたくしはユリアなの! わたくしがレオン様に愛されるの! マリアンヌに戻るなんて嫌! 嫌よ! 戻さないで!」
その叫びを聞きながら、俺はじっとりと冷や汗の流れる背中の冷たさを感じながらただ拳を握り締めていた。
ようやく、全てが動き始めた。けれど、失われたものはもう戻らない。
ユリアの母上も。
奪われた時間も。愚かな俺が間違えた事も。
何一つ、元通りにはならない。




