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思うこと  作者: 奈月沙耶
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後編

「そりゃ、先輩は何でもできるしバリバリ働いてるもの。結婚なんて思いもしないでしょうけど」

 唇を尖らせた職場の後輩に言われた。

「普通の女は結婚でもしないと安泰な生活は望めないですもん」

 そりゃあ女も二十代も半ばになれば打算で動くようになるけれど、短大を卒業したばかりのお嬢さんがもうそんなことを言っているのかと私は妙に感心した。

「働く女にとって結婚て逃げ道みたいになっちゃうのよね」

 この話を聞くと私の友人は微笑んで言った。高校の同級生だった彼女は私なんかよりずっと頭が良くて美人で性格も良くて、私が男だったら絶対に嫁にもらいたいタイプの女性だった。いったいどんな男の元へ行くのだろうと思ったら十年来のつきあいの幼馴染とゴールインしてしまい私を大いに落胆させた。

「あんたにあの子はもったいない」

 悔しくて嫌味を言ってやると彼女のダンナは頭をかきかきこう言った。

「いやあ、本当にねえ」

 このおのろけ野郎、絞め殺してやろうかしら。かなり本気で私は考えたものだった。

「女が三十前で結婚を急ぐのは切迫した問題があるからでしょうけど」

 笑って言葉をつなげた彼女に私は答えた。

「子どもでしょ」

 私は子どもなんて死んだって産むつもりはないけれど。それは彼女も同じはずだった。私は心配になって身を乗り出す。

「どうしたの? ダンナが子どもが欲しいとでも言いだした?」

 ちょっと驚いた顔になって彼女はふるふる首を振った。

「ううん。そんなことないけど」

 彼女は瞬きを繰り返して俯いた。

「ただね、こればっかりはわからないじゃない。このまま子どもをつくらないで後悔するかもしれない。けど私はやっぱり子どもを育てるなんてことできそうにない」

 親に愛された記憶がないから自分も子どもを愛せる自信がない。それは私と彼女に共通する思いだった。

「あのね、子どもを立派に育て終えた女性が言うでしょう。子どもはひとりは産んでおくべきよ、自分も成長できるし子どもを育ててはじめて一人前になれるって」

「なによ。それじゃあ子どもを産まない女は不完全だって言うの?」

 憤慨する私に彼女は目を上げてにっこりした。

「うん。私もそう思った。どうしてそうなるんだろうって。多分ね、子どもを産むべきだって意見は本当だと思う。みんなが言うんだから。ただね、それがあたりまえなんだって押し付けられるのはイヤ」

 静かに静かに彼女が語る言葉は私の中にも渦巻いているものだった。私が吐き出せば激しい抗議になってしまうことも、彼女は静かに言葉を選んで話す。

「確かに子どもを持つことで得ることもあるでしょう。でも欠けてしまうものだってあると思う。子どもを産まずに年をとった女が得るものだってあると思う。だから見えてくるものだってあると思う。物事の良し悪しなんて一概に言えないはずで、それなのにどうして一方を否定されなくちゃならないのかしら?」

「怖いんだよ、きっと」

「怖い……。そうか、そうだね」

 何度も頷いて彼女は小さく息を吐き出した。

 自分が歩いて来た道こそが何より正しいのだと、これ以外の幸福などないのだと。みんなそう思いたいのだ。自分の人生を後悔したくないから。自分を誇りたいから。だから口にする。

 こうするのがいちばんいいことなの。あたりまえの、それが幸福ってものなのよ。それが、別の何かを目指そうとする者たちにとって暴力となり得ることすら知らずに。

「数の論理よね。みんながそうだから、あたりまえだから。子どもを産む気もないのに結婚した私はとんでもなく不遜に見えるのでしょうね」

 彼女が寂しそうに微笑んだのはきっとダンナへの罪悪感からだろう。自分一人の気持ちならいくらでも整理を付けられるけど相手の思いはそうはいかない。いつもこうして相手を思い合う夫婦だから、私は口を挟まないようにしている。悔しいけど。


 女のしあわせ。口の中でつぶやいてみる。女は即物的で打算的だから男の何倍も頭を使って計算する。自分がしあわせになるために。そこに男に対してのナサケなど差し挟むことなく非情を通し、そして理想に目をつぶり気が遠くなるような忍耐を重ねた女こそが、誰もが羨む生活を手に入れることができるのだろう。世間の大多数が認める女のしあわせというやつを。

 ひねくれ者の私には望むべくもない。ただ、思うのは。

「私、しくじったなって、思わなくもないんだ」

「え?」

「若い頃にもっと恋しとくんだった」

 今の私にとって恋は不要のものだった。男の子とやりとりするのはとても面倒だった。これじゃいかんと強いて付き合ったりもしたけれど、気持ちがなければ苦痛なことがわかっただけだった。

 子どもの頃、私が好きになろうとした男の子たちはみんな、将来私を養ってくれる人、結婚して贅沢をさせてくれる人、その候補だったから私は彼らを好きになった。本当に好きだったわけじゃなかった。

 女は男に頼らないと生きていけない。そんな母親を見ていたから、お金持ちの男と結婚して裕福に暮らすことが幸福なのだと思っていた。成長して、母親を一人の人間として見ることができるようになったとき、私は心の底から母を嫌悪した。あんなふうには絶対になりたくない。

 そう思ってから私の中で男は不要のものとなった。男がいなくても生きていける。一人でも生きられる。そうして恋さえ頑なに拒み通してしまったことを何度後悔しただろう。

 まわりの同年代の女たちがそれこそ生活の糧としての結婚相手を探している今頃になって、私は真摯な恋の相手を探している。初恋を見誤ってから、私は恋も満足にできずにいる。

「支えてくれる人が欲しいのね?」

「多分ね」

 それは、そんなに難しいことなのだろうか。何の飾り気もなくお互いのことを語り合える相手を見つけることは、こんなにも難しいことなのだろうか。

 難しいのだろう、きっと。思い知らされると、意気地のない私は結局ひとりでいることを選んでしまう。自分が傷つかないいちばんの方法はこれだから。

 恋をするなら、見つめることしかできない、決して手の届かない人がいい。手を延ばそうとも思わないし触れられたいとも思わない。時折静かに微笑んでもらえるだけで他愛なくしあわせになれてしまうような。

「それはあなた、まるでお月様に恋してるみたいね」

 笑いながら彼女に言われて私も微笑み返した。

 月に恋をする。月は手の中に落ちてくることはないし、月は何もしてくれない。だから傷つくこともない。ただそっと思っているだけ。安心できれいなだけの恋。私みたいな臆病な女にはそういうのが似合ってる。


 自分で手に入れた自分一人の部屋で、自分だけの夢を思う。ひとりで暮らすこと、ひとりで生きること、ひとりで年をとること。これがきっと最高のかたちなんだと思う。けれどどうしようもなく欲張りな私は心の奥底で信じ続けているのだ。

 私を見て、声を聞いて、私の言葉を正しく受け止めてくれる人。本当の私を語れる人。今まで生きてきて感じたことすべてをその人に打ち明けたい。

 月みたいなんかじゃなく、生身の手で私を救ってくれる穏やかな目をしたその人は、きっとどこかに存在する。この世界のどこかにいる。出会うことはないだろうけど。

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