愚かな
魔封じの間のドアに外側から封印を施したベロニカは、すぐさまその場を後にした。
予断を許さない状況であった。
ベロニカは古代棟の建物の中を走りながら考えていた。
対キメラ。対イセ。どちらに加勢すべきだろう。
ベロニカは迷っていた。
キメラとの戦い。
アニヤとアネモネの武器に魔術をかけて補強してある。しかし、キメラを討ち取るには、それだけではいささか戦力不足と感じられる。
薄曇りの暗さを経験しているとはいえ、何しろ二人は町の便利屋、一般人だ。兵士でも魔術師でもない。
やはりベロニカは、アニヤとアネモネに加勢するべきなのか。
しかし、イセとの戦い。
そちらも気になる。
ミカエルとハシマは、先の二人よりは戦闘力で勝るだろう。
とはいえ、相手は薄曇りの暗さ。キメラなどとは比較できない力を有している。
薄曇りの暗さはイセと融合している。
融合することで爆発力を高めている。
しかし、イセである限り、おそらくベロニカに対しては手を緩めるであろう。また、事態を打開する糸口になるようなやり取りもあり得るかもしれない。
イセとの戦いにベロニカが加勢する意味は大きいように思われる。
ベロニカは馳せ参じる先を迷いながら、魔封じの間のある建物から一歩外へと出た。
ベロニカの黒いエナメルのパンプスが石畳を踏んでカツンと音を立てた時、唐突に閃くものがあった。
サイゴのツギの塔。
ベロニカはハッとした。
薄曇りの暗さという未曽有の脅威に対抗する力。
今自分がいるこの古きエリアは、魔封じの間の存在に裏付けられるように、特別な力を擁する場である。
その最たるものこそ、サイゴのツギの塔だ。
滑らかな舗装路ではない石畳を踏んだ時、ベロニカは直感した。
薄曇りの暗さは、常識的にまともにぶつかりあってかなう相手ではない。
禁を破ってでも、サイゴのツギの塔の力を利用するしかない。
ベロニカには、サイゴのツギの塔に入る権限は与えられていなかった。
サイゴのツギの塔にまつわる諸々は、権力者たちの手元に置かれ秘匿され続けてきた。
サイゴのツギの塔は魔術師にとって非常に興味深いものでありながら、触れてはならないとされるものでもあった。
下手な好奇心は命取りだ。サイゴのツギの塔に手出しをする者は、命も含めて保証されない旨が公然と沙汰されていた。
サイゴのツギの塔にどれほどの力があるものなのか。
逆に、この事態を引き起こした元凶がそこにある可能性すらある。
これほどの異常事態にもかかわらず、まったく対応の手が打たれていない。
サイゴのツギの塔にもしその力があるのなら、しかるべき人間がすでにそれを駆使して薄曇りの暗さに対抗していてもおかしくはない。
そうしないのは、むしろ薄曇りの暗さによる爆発を企む何者かが、塔で糸を引いているからなのかもしれない。
あるいは、サイゴのツギの塔は大した力のない張りぼてである可能性も否定できない。
あたかも畏れ多い神秘であるかのように祀り上げ、その威を利用する。ありそうな話である。
ベロニカにとって、真実はどこを向いても闇の中だった。
ヒルダの力。あれによって薄曇りの暗さが発生したのであろう。
イセは宵闇の青頭首であり、薄曇りの暗さを取り込んで魔力を補完した。
力のないイセに、頭首たる力を宿らせるために仕組まれたことなのか。
しかし、制御不能な危険な力であることを思えば、その発想はありえない。
宵闇の青グランドは、当初、ベロニカがイセを預かることさえ嫌がったのだ。そこからは、イセを囲いこみ保護するような印象を受けた。
また、イセが自ずからそう仕組んだかと考えると、イセ自身にそこまでして力を手に入れたいという積極性があったとも思えない。
ミカエルの妹、ハシマの思い人フロウが何者かにさらわれた。
宵闇の青の仇敵まことの黒がからんでいるとアニヤは考えていたようだ。
そのフロウを、なぜかイセが抱いていた。
ミカゲが望んだから、と。
ミカゲはまことの黒か。
それならばイセとミカゲの恋が、一族のぶつかり合いとなり、今回の事態を引き起こしたのだろうか。
しかし、まことの黒は衰退し、勢力を失っていたはずではないのか。
フロウは瀕死だった。
イセは、宵闇の青の魔術によるものだと言っていた。
イセもフロウに何事が起こっているのかは、明確に分かってはいないようであった。
ベロニカは唇を噛んだ。
今回の出来事を理解するためのピースがまだまだ足りない。
ベロニカは、小走りにサイゴのツギの塔を目指しながら考えていた。
ヒルダの愛するキングという存在。
まことの黒と聞いた時、ミカエルとタタが話していたシェイドという存在。
その二人のことが分かれば、もう少し今回の筋立てが分かるのだろうか。
サイゴのツギの塔に近づいた時、騒然とする人々の気配を感じとりベロニカは足を止めた。
ベロニカは素早く建物の陰に隠れ、塔入り口となる扉付近を窺った。
「おやめください!」
「お一人では危険です!」
「離しなさいよ! ここまで来たんだから、どうにでもなるわよ!」
ベロニカは目をぱちくりとした。
もめごとだった。
緩やかなウェーブのかかった黒髪を束ねた背の高い細身の男が、戦闘服を着た数名の男たちに囲まれていた。
「あんたたちは装甲車に戻んなさい! じゃなかったら、その辺を警備してなさい!」
「ロキ様! 一人だけでも部下を連れて行ってください!」
「うるっさい! あんたたちごときが入っていい場所じゃないっつってんの!」
常春の華ロキだ。
知った顔だ。サイゴのツギの塔の管理者である。
ベロニカはそれを把握すると同時に、状況を知ろうと目を凝らし耳をそばだてた。
ロキは、ストライプのシャツにスラックスというオフィスにいるような出で立ちで、すがりつく戦闘服の男たちを引きはがしにかかっていた。
「こんな異常な場所で一人になるなど、お命の危険があります!」
「その異常を何とかするために行くんだってば! どきなさい! 命令よ!」
「ガロン様からロキ様を守るよう、仰せつかっております!」
「臨機応変って知らないの!? どきなさいよ!」
ロキが怒鳴り散らしても、戦闘服の男たちは引かなかった。
ベロニカが見渡すと、少し離れた通路の先に、狭い所にねじ込むように置かれた装甲車があった。
ベロニカは、ロキたちが薄曇りの暗さに対応するために、学院の外から装甲車に乗ってやって来たのだと察した。
サイゴのツギの塔の力を使うためにわざわざロキがここに来たにも関わらず、その秘匿性によって、他者を伴えないことでもめているのだと理解した。
バカじゃないのか。
ベロニカは見ていてイライラしてきた。
一人でも複数人でもどっちでもいいから、さっさと行け。
拮抗するな。どちらか押しきれ。
ベロニカがいら立ちのあまり魔力を暴走させてしまいそうになった時、それは起こった。
ゴゴゴオッという深く重い振動が、サイゴのツギの塔を揺るがしたのだ。
塔の力による閉鎖性のためか、不思議と地面は揺れず、塔だけが揺れた。
奇妙な空気の震えがベロニカにまで届いた。
サイゴのツギの塔を揺さぶった振動の元は、尋常なものではないとベロニカにも理解できた。
ロキも張りつめた視線で塔を見上げていた。
ロキが突然駆け出した。
ロキが塔の扉に手をかけた時、戦闘服の男たちが慌ててロキを羽交い絞めにした。
「いけません! ロキ様!」
「はーなーせっ!」
「絶対行かせません!」
「バカ! 何があったか早く確認しないと! バカ!」
ベロニカは、やきもきしながらそのやり取りを見ていた。
しかし、いつまでたっても決着がつかないのである。
らちが明かない。
ベロニカはロキたちに背を向けた。
サイゴのツギの塔について漏れ伝わる情報を、ベロニカは独自の嗅覚でかき集めてもいた。
それが役に立つ日が来た。
サイゴのツギの塔への入り口は、塔の正面の扉だけではない。
地下で古代棟とつながっている。
ベロニカは、サイゴのツギの塔に隣接する建物の一つに入った。
そして、その優秀さを遺憾なく発揮し、サイゴのツギの塔へ続く地下通路をさっさと探り当てたのであった。
サイゴのツギの塔へ続く地下通路を抜け、ベロニカはサイゴのツギの塔の中へと入った。
ベロニカに道を示すような、強い力の痕跡があった。
それを辿ると不思議なくらい何の妨害も受けず進んで行けた。何かしらに阻止されると覚悟していたベロニカにとっては、拍子抜けの状況であった。
なんと通路の途中にある扉までも、開け放たれたままになっていた。
サイゴのツギの塔は、黄味がかった白色の建材で造られていた。床も壁も、石とも金属とも思える不思議な光沢を有していた。
ベロニカは、塔に足を踏み入れてすぐに、感覚が澄み渡り、魔力が高まっていくのを感じた。
強い力の痕跡による導き、これは、強い魔力を持った何者かが通った道を、ベロニカが辿っているということである。
妨害がないのは、その何者かがすでにそれらを排除したからなのかもしれない。
先ほどの振動に関係があるのかもしれない。
こんなに簡単に塔に入り込めるなど、ありえないことである。
ベロニカは、サイゴのツギの塔の一室に辿り着いた。
大きな力が動いた後の気配が、強く消え残る場所だった。
鈍色の扉が斜めに開いていた。
ベロニカは、警戒しながらそっと中を窺った。
最初に、壁にかかる大きな白い石板が目についた。
また、床が歪み、割れているのが見えた。
それから次に、壁際に人がひとり倒れているのが見えた。
ベロニカの心臓がドクンと大きく鳴った。
「スイレン」
ベロニカは部屋に駆け込んだ。
部屋は制御室であった。
割れて凹凸が激しい床を、よろけながら走った。
ベロニカは、倒れたスイレンの顔の横に膝をついた。
スイレンは目を閉じ、微動だにしなかった。
「何てこと」
ベロニカは顔色を失った。
震える手をスイレンの頬に添えた。
スイレンの頬は冷たかった。
「何てこと」
ベロニカの口からもう一度つぶやきが漏れた。
ベロニカはまばたきも忘れ、スイレンの整った顔を見ていた。
やがて、ゆるゆると視線を上げた。
ベロニカが制御室を見渡すと、床に砕けた魔法陣の跡があった。
緻密に描きこまれていたのであろう大きな魔法陣の跡なのであった。
ベロニカはもう一度スイレンの顔を見た。
「バカなことを」
ベロニカは震える声でささやいた。
確かな事情は分からない。
今起きている非常事態との関連も分からない。
しかし、おそらくスイレンが大きな魔術を行ったのだろう。
イセが宵闇の青ならば、スイレンも宵闇の青。
宵闇の青の大きな魔術。
フロウに成された魔術と関係があるのか。
はたまた、まことの黒との戦いに巻き込まれたのか。
何が起こっているのか。
薄曇りの暗さとの関連はあるのかないのか。
分からない。
分からないが。
ベロニカの頬を涙が伝った。
スイレン、スイレン。
ベロニカは繰り返し心の中で呼びかけていた。
嘆きが止まらなかった。
泣いている場合ではない。
緊急事態の真っただ中である。
しかし、制御室は静かだった。
外界から切り離されたような、シンとした静けさに満ちていた。
ベロニカは嘆くことを止められなかった。
スイレン、スイレン。
何度も呼んだ。
スイレンはハシマに出会い、ベロニカの術を解かれた。
ハシマはスイレンを気にしていた。
スイレンは、ベロニカの元には帰らず、今ここにいる。
愚かな。
スイレン、何をしているのだ。戦いに身を投ずるなど、不似合いなことを。
ハシマ、なぜスイレンの術を解いたのだ。スイレンがこんなことになったのは、負の感情に押し流された結果ではないのか。
「いいえ」
ベロニカは、スイレンの頬をなでた。
それからその髪を何度もなでた。
「私が」
ベロニカは誰よりも己の愚かさを呪っていた。
ハシマとの決闘がなければ、スイレンの術は解かれなかった。
そもそも術を解かれたのは、ベロニカの術が容易にほどける仕様であったからだ。
スイレンが宵闇の青であることも知らなかった。
何に苦しんでいたのか、もっとスイレンと話していたら違っていたのかもしれない。
何の予感もなかったのか。
いや、感じていたからこそ、スイレンに迷子札の魔術をかけていたのではなかったのか。
どこで道を間違えてしまったのか。
どうしてスイレンが今ここで横たわっているのか。
何もかもベロニカの手で上手くいったかといえば、そういうことでもないのだろう。
力不足。
ベロニカがスイレンを預かったところから間違っていたのか。
スイレン。
スイレン。
どうして。
どうして。
ベロニカの頬を止めどなく涙が伝い落ちていった。
倒れ伏すスイレンという圧倒的な現実を前に、己の居場所もなすべきことも、ベロニカの頭から吹き飛び消え去ってしまったのであった。




